通信15-4 たかが映画じゃないか | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート

 

 

 先月の終わり頃だったろうか、ふと思いつきフェリーニの「道」、あのあまりに純粋な、結晶化された悲劇のような作品を観てひどく打ちのめされ、もう当分フェリーニの映画は観ないと心に誓ったその次の日の事だった。ふらふらと天神の古本屋をうろついていて、あっ、「カビリアの夜」だ。そうさ、古本屋の棚に同じフェリーニの名作「カビリアの夜」のディスクを見つけたんだ。

 

 

 ああ、ついつい手を伸ばしてしまう。娼婦であるヒロイン、カビリアが男に騙され、全財産も家も失い、「もう二度と恋なんかしない」と泣き喚いた直後に、祭りに出掛けるギターを抱えた男たちに微笑まれ、にっこりと笑いを返す、ああ、舌の根も乾かぬうちに。そうさ、私もカビリアと同じさ、早速そのディスクをレジへと運んだんだ。

 

 

 小走りに家に戻り、すぐにその映画を観た。二十年振りだ。「道」、「崖」、「カビリアの夜」、フェリーニの悲劇三部作といわれるその最後の作品だ。うん、三部作の中では一番救いがあるといわれるやつさ。でも、その、見知らぬ男に微笑みかけるラストシーンを救いと見るのか、あるいはまたまた繰り返される存在の悲劇と見るのかは、人によってわかれるところだろう。ともあれ返す刀でなどという表現があっているのかは知らないが、うん、自分ではそんな気分さ、アマゾンというサイトを掻き回し、見つけ出した「崖」のディスクを注文した。ああ、フェリーニの全作品の中でもっとも救いが無いといわれているやつだ。うん、尻込みしちゃあいけない。たかが映画じゃないか。

 

 

 なんだかんだで一年で一番疲れてぐったりしている月、体中に雨を染み込ませ、もはや自分自身が「水取りゾウさん」みたいにぐずぐずになっている月、その六月にフェリーニの全作品を観る事に決めた。うん、最近ちまちまと物を考えすぎるんだ。もううんざりだね。ここでひとつフェリーニ監督にお願いして、この弛んだ尻を二十発ほども蹴り飛ばしていただこうという腹積もりさ。ああ、インタヴューやメイキングを収めたやつも合せて二十本ほどのディスクがこの部屋にはあるんだ。

 

 

 そういえばほんの数日前、映像の無料配信サイトで「8 1/2」を繰り返し観たところだ。何故、わざわざあらかじめ持っている映画をインターネットで観るのかって?もちろん誰かが観ているからさ。「べつに作品とは共同体が・・・」などとややこしい理屈をつけるつもりなどない。そもそもそんな理由などない。たかが映画じゃないか。

 

 

 ああ、でも願わくばもう一度、くたばってこの体が土に還ってしまうまでに、フェリーニの映画を映画館で、あの巨大なスクリーンで観たい。ガキの頃、よく大人たちに映画はあまりスクリーンに近い席で観てはいけないと教わった。首がひん曲がってしまうぞと、脅されたのさ。でも、もちろんフェリーニの映画は一番最前列で観たいね。馬鹿みたいにぽかんと口を開けてさ。「道」の中で、復活祭の行列に行き遭ったジェルソミーナが、その大きな目をもはやこれ以上は無理だというほど大きく見開いて、まるで巨大な欅の木のように聳える十字架を見つめる。そんな目でフェリーニの映画を観たいんだ。

 

 

 「8 1/2」の冒頭近く、鉱泉場での場面、壮大な「ワレキューレ」の音楽に乗ってカメラが人々の顔をなめながらゆっくりと歩く速度で移動してゆく。その時にスクリーンに次々と映し出される巨大な人々の顔、顔、顔。おいおい、人間の顔ってこんなに凄まじいものだったっけ。昔、映画館でこの作品を観た時に頭の中に浮かんだ映像、それはあのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの天井画さ。いや、もしかしたらミケランジェロの天井画を観た時に、フェリーニの作品を思い出したのかもしれない。

 

 

 前世紀の終わり頃、日本テレビが中心となってミケランジェロの天井画「天地創造」を修復したんだ。その時の情況を事細かに記録した映像が残っている。天井のすぐ下に足場を組み、そこで修復士たちが緻密な仕事を繰り返す。ミケランジェロの死後、この四百年の間にもっとも人間がその絵に近づいた瞬間だ。その修復士たちを笑うようにそこに存在するアダムの巨大な顔にとことん怯えた。ものを創るって事の根本を自らに大きく問い掛けた瞬間さ。ああ、くそ、上手く言えないね。でもともかく物を創るってのは素晴らしい事さ。うん、ともかくこの六月は、たかが映画にどっぷりと首まで浸かり込んでやろうと思っているんだ。

 

 

 

 2017. 6. 5.

 

追記)2023年の夏 フェリーニ映画祭が開催され、福岡市は中洲にある中洲大洋という映画館で8 1/2を鑑賞する事ができました。思い残す事が一つ減りとてもいい気分です。