一年の半分が過ぎた。そう感じるのは自分がいつも夏というものを中心に考えているからだろう。季節に上昇と下降というものがあるならば、一年を八ヶ月と四ヶ月に区切るのはまっとうな気がする。上昇は下降に比べてはるかに時間を要するからだ。じっくりと登りつめれば、後は冬の底まで転がり落ちるのはあっという間だ。
去り行く夏を惜しんで何か贅沢でもしようかと、市場を見回るが特に何も思いつかない。鰻でもかって帰ろうかとも思ったが止めた。夏に、汗を滴らせながら鰻を掻き込むのは趣味じゃあないなどと思っているところに、綺麗に粒が並んだとうもろこしが目に飛び込んできた。衝動的にとうもろこしを買った。我が愛弟子、そうくん、はなちゃんのおばあさんに、いつぞや茹でていただいたとうもろこしの味がふと口の中に浮かび上がってきたんだ。後にも先にもあんな美味いとうもろこしを口にした事がなかった。ものが良かったのだろうか、茹で方にこつがあるのだろうかなどと考えながら、自分で丁寧に茹でてみたのだが、ごく普通の味だった。そんな締め括りで今年の夏は終わった。
いや、もう一つ付録があった。嬉しいおまけが。今年は嫌というほど雨が降った。雷も、頭が割れるほど鳴った。だが、激しい夕立に遭う事はなかったんだ。でも、そいつが今朝やって来た。今朝?夕立じゃあないじゃないか。なに、構うもんかってんで、雨の中に飛び出す。真上から雨を叩きつけられ一瞬、体中を怯えが走る。後は強い恍惚と快感だ。そのまま近くのショッピングモールまで歩いた。そこはひどく足場が悪い。ちょっと強い雨が降れば、たちまち水溜りの出現だ。踝まで水に浸かりながら、そこいらを歩き回る。いいぞ、水陸両用ゴム草履の本領発揮って訳だ。などと浮かれている間に、おお、レッスンの時間じゃあないか。慌てて家に帰り、シャワーで体を温めてからスタジオに駆け込む。
それにしてもこのあたりの足場が悪いのは、元々が砂地だったせいなんだろうか。そのショッピングモールも、元々砂浜だった土地に作られた専売公社の煙草工場の跡地にできたものだ。私がいま住んでいるアパートも江戸時代は砂浜だったと聞く。馬場があり、刑場があった跡らしい。埋め立ての際に、砂の中からどんどん出てきた石を近所の住人たちが持ち帰り、漬物石などに使っていたところ、次々に不幸が起こり続けたという。その石はそこで斬首された罪人たちの墓石だった訳だ。それでその墓石を集め供養するための地蔵塚を作った、そいつが私が今いるアパートの向かいにある。
西国霊場の一つにも数えられるなかなか立派なその地蔵塚は、このあたり住民の信仰の対象としてとても大切にされている。藤棚も良く手入れがされているし、毎月二十三日には法要が営まれている。一見場違いに見えるような若い男女がお参りしている姿もよく見かける。いつぞや、すぐそばにある進学校の生徒が、何か地蔵に悪さをしたらしく、老人たちに目の玉が飛び出るほど叱られ、べそをかいていた。可哀想にとも思ったが、何か祟りがあるよりは良いだろうってなもんだ。
「アメリア姫の遺言」という佳曲がある。私がその曲を知ったのは、映画「禁じられた遊び」の中でだ。その物悲しい歌は私の中で、強い光と影のコントラストと一体になっている。妬みから毒殺された若い姫君の物語を歌ったものらしいが、実はその出典は余りさだかではないと聞く。私の中では、強い悲劇そのものとして存在し続けるこの歌だが、人々の記憶の中にはシャボン玉ホリデーという番組の中で流れる物悲しい曲としてあるらしい。昔、この曲のリハーサルをしている時に、ベースの北崎千代佳さんが何かぶつぶつ呟いていた。耳を欹てると「おとっつぁん、お粥ができたわよ」と聞こえた。シャボン玉ホリデーの中の定番、病床に伏せるハナ肇に、孝行娘を演じるザピーナツの伊藤某がお粥を運んでくるその場面で、いつもこの曲が流れていたんだ。
2014. 9. 5.
追記)私の幼い感傷とも、ひとびとの滑稽な物悲しさとも無縁なところで、この主題の持つ強さそのものに引き摺られるように「アメリア姫の遺言 」の変奏を奏でたその映像をホームページにリンクしました。御覧いただければ幸甚です。