通信10-15 変人の思い出 | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート


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 初めて訪れた大橋は泥の街だった。泥の中にぽつりぽつりとプレハブの店が建つ、その中の一つ「すずめ」という焼き鳥屋に出向いたのだった。友人に車を出してもらった。変な店だった。がらりと引き戸を開けると、目の前の階段に人が雀のように鈴なりに並んで酒を呑んでいた。彼らは九州芸術工科大学の学生だった。私はその中の一人、大谷木靖君に用があったのだ。どんな用があったのか、それはすっかり忘れてしまった。ともかく、その旨を告げると、彼は上にいるから上がれと言う。階段に犇く人の合間を縫って二階の座敷に入ると、彼は奥にいると言う。奥?奥ったって小さな座敷が一つあるだけじゃないかと、訝しく思っていると、開いている窓を指され、そこにいると言われる。窓を乗り越えて屋根の上に出ると、大谷木氏はそこで酒を呑んでいた。そうか、狭い建物では奥の奥は外なのか。
 
 とりあえず用件を済ませ、外へ出ると店の中で呑んでいた彼らがぞろぞろと見送りに出てきた。彼らは車を取り囲むと、何故か笑顔で車体を揺さぶり始めた。どうやら車を持ち上げて引っくり返そうとしているみたいだった。私は、ともかく愉快でたまらなくなったが、車の持ち主は苦虫を潰したような顔になっていた。皆、何をしているのだろう?儀式?まじない?いや、単に車というものが珍しいのかも知れないぞ。奇声を上げているやつもいる。一体どこの国の人たちだよ。私は終始笑いが止まらなかった。

 

 それから数年後、私はその大橋に引っ越してきた。女と暮らす為に。堅気になろうと職も決めていた。大橋駅から十分ほども歩いたところにある写真の現像会社に、毎朝通っていた。そんな平和な日々から、再び悪の道に引き摺り戻したのは大谷木君だった。堅気になろうという私の意思は固かった。だがその固さは、金剛石のような立派な固さではなかった。どちらかといえば、置き忘れられた食パンがかちかちになっているというような固さだった。お湯を掛ければたちまちぐにゃぐにゃになってしまうような類の固さだ。ぐにゃぐにゃ、ああ、そいつはもう取り返しのつかない状態なのだ。

 

 ともあれ、大谷木靖氏は今、宝塚の歌劇場で指揮者として活躍している。あんな変質者が宝塚の歌劇場に足を踏み入れて良いのか、というのが昔の友人たちの偽らざる感想だろう。いや、変質者では、もうなくなったのかもしれないな。面白そうな奥さんも貰ったみたいだし。面白そうなというのは、年賀状に刷り込まれた奥さんの写真に対して懐いた私の勝手な感想である。ともあれ変質は心の傷が作り上げるものだ。彼の傷は癒されたのだろうか。

 

 最初に会ったときから、私は大谷木君に深い心の傷を見ていた。深い傷を高い能力と自意識で克服しようと無意識に頑張っていると言うのが私の彼に対する変わらない印象だ。それは変人と言う形で表れる。柔らかい心を変人という殻で守らなければならないというのは悲しい事だ。

 

 大谷木靖氏は堅気の仕事を経た後、何故か音楽の道へと転げ落ちてしまう。何とか言う指揮者に弟子入りしたのだ。これは不幸な事だ。多くの音楽家は音を動かす術は知っているのだが、音を動かす理由には関心が無いのだ。早期英才教育と無縁に育った彼は、音を動かす術の入り口でいいようにあしらわれ、彼自身の音を動かす理由、それはもちろん傷なのだが、は深い孤独の中に押し込まれてしまったのだ。

 

 最後に彼が演奏している姿を目にしてから何十年になるだろう。その頃は、ただただ、真面目にやっているなあというぐらいのものだった。今は毎日ステージに立ち、音楽の扱いに長け、随分と自由を手に入れたことだろう。歌劇場以外で、コンサートを指揮する機会は無いのだろうか。それはもう彼自身であるその毒を思い切り注ぎこんだ音を聴いてみたいものだと思う。ともかく音を膨らませ、輝かしいものにするのは毒なのだ。



                                       2013. 2. 4.