通信9-10 結婚には縁がなかったが、その行進曲には大いに惹かれた | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート


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 私の四歳の愛弟子、はなちゃんは最近バレエに入れ込んでいる。ちゃんと毎週レッスンに通っているらしいし、いつぞやはバレエタイツやバレエシューズを身に着けて見せてくれた。手つきもバレリーナらしくなってきたし、コッペリアの少女たちのステップを何気なく踏む事もある。そんなはなちゃんに、バレエのDVDをお土産に持って行くのが最近の私の楽しみの一つだ。はなちゃんのお兄さん、そうくんには何故か「おばけのQ太郎」の復刻版を持っていくことにしている。

 

 この前はシェイクスピアの名作「夏の夜の夢」をバレエに仕立てたものを買っていった。あの、メンデルスゾーンの有名な音楽に振り付けを施したものだ。アレッサンドロ シュリの見事な踊りを見せたかったのだ。何より、深い夜の森で妖精たちが戯れるそこには、ヨーロッパのファンタジーの原点がぱんぱんに詰まっているのだ。

 

 だが、実は私がその音楽を聴きたかっただけなのかもしれない。ともかく風邪をひきやすいガキのように、あらゆる音楽家から次々と影響を受け続けてきた私が、人生のとば口でかぶれたのがこのメンデルスゾーンだ。まだ、三歳か四歳の頃。今のはなちゃんぐらいの頃。それ以来、数十年振りにこの音楽と再会した私は、幼少の頃の自分の印象が正確だった事を知った。

 

 粗末な、物心両面で貧しい家に私は生まれ育った。だが、何故かその家にこの「夏の夜の夢」のレコードがあったのだ。私は、その組曲の中でも特に、その結婚行進曲に惹かれた。鷲摑みにされた。頭を摑まれてぐちゃぐちゃに揺さぶられた。結婚行進曲。誰もが知っているやつ。「ゼクシィ」だとか「メロンでメロメローン」だとかと浮かれまくっている街中のお姉ちゃんたちの誰もが口ずさむ事ができるあの曲。まだ、結婚という言葉さえ知らなかった私だが、よもかくあの音楽にさらわれてしまったのだ。

 

 串団子のように和音を一つずつ積み重ねていくトランペットのファンファーレに続いていきなりオーケストラ全体で鳴り出すドッペルドミナントの厳かな響きに圧倒された。曲はそのまま主調の三度上の調(属調の平行調)をかすめ、なかなか主和音を鳴らす事はない。たちまち私は不安のもたらす愉悦の中へと連れ去られてしまったのだ。曲は属調で書かれた第一中間部へと進み、もう一度華やかな主部を経た後、二番目の中間部へと入ってゆく。その中間部は一転、下属調で書かれていて、その窓を開け放し部屋に風を呼び込むような場面転換の上手さに腰が抜けた。そのまま音楽は、小刻みなカデンツを繰り返しながら、確実に主部へと向かってゆくのだが、その繰り返されるカデンツの美しさに怯えた。ガキってのはとにかく怯える事しかできないのだ。とにかく切ないのだ。その美しい響きは。私は、徹底的に切ないという事を叩き込まれたのだ。今でも美しいものを見ると、美しい人に会うと、小刻みに繰り返されるカデンツの響きで頭の中が一杯になる。しかも、少しずつ主部に引き寄せられるその中間部は、繰り返しを伴うのだ。いきなり切なさのとば口に引き戻される。まさに拷問だった。その胸がぐさぐさになるようなその切なさをもう一度味わい直せというのだ。泣きたくなった。いや、泣いた。ともかく私は、この時、反復の意味を知ったのだ。

 

 まだ言葉も持たない糞ガキだ。もちろんドミナントも属調もカデンツも何も知らない。だが、それらがもたらす効果だけははっきりと間違いなく把握していた。それ以降はこの体験に対する言葉を拾い集めてゆくだけだった。メンデルスゾーン体験は、それ以降の自分の音楽生活のほとんどを予言していたのだった。

 

 何だか、書いていて頭が痛むような話だ。呪われたようなとんだ糞ガキぶりだ。本当は、のびやかに「おばけのQ太郎」に大笑いしながら毎日を過ごす、そんな幼少期を過ごしたかったのだ。だが、もちろん私のせいじゃないさ。ともあれこの私は、うっかり連帯保証人とかいうやつを引き受けたばかりに、他人の借金に追い回されるような間抜けな人生を送っているのだ。



                                       2012. 10. 3.