自然に生きようというような四文字熟語に行雲流水という言葉があります。
「空を行く雲や川を流れる水のように、執着せず自然の流れに身を任せて生きる」という姿勢を自分の生き方の指針とするという意味です。
物事に執着せず、自然のなりゆきに身をまかせること。 また、とどまることなく自然に移り変わって淀みがないことの例え、と説明されています。
禅宗では修行僧のことを雲水と呼びますが、それはこの「行雲流水」という禅語からきています。
大空を自由に行きかう雲のように、高いところから低いところによどみなく流れる水のように。 何事にもとらわれず、執着せずに生きる、という意味です。
雲外蒼天(うんがいそうてん)という熟語があります。
「どんな困難も努力して乗り越えれば、その先には必ず明るい未来(青空)が開ける」という意味で、逆境に負けず前向きに生きたい人の座右の銘としてよく用いられます。
自然現象は只、そのことのみの現象でありそのようになる運命の出来事の事で二度と同じことが起きない現象でもあります。
雲の形も水の流れもその時だけの現象なのです。
逆らうと天罰が下るのです。
吾々人類は神が創造したからとして自然に逆らって生きてきました。
そして現在は地球温暖化で地球が沸騰しているとさえ言われています。
さて人間の生きざまはどうであろうか。人間は少しばかりの知恵と自己中心的な煩悩だらけの凡夫として生きています。己の自我からの生きざまが真理の生き方でもあるかのような知恵しかもっていないのです。
最近、思うのですが自分の気持ちが弱く感じられる時ほどに真理が近くなっているのではないかとも思えるのです。
元気のいい時には俺我、俺我の我が強く真理が遠のいているのです。
気弱になった時ほど、自我の勢いが弱まった時ほど真理に近づき弥陀の救いの決定が近づいているのではないかと思えるのです。親鸞は逆に煩悩が激しい人ほど弥陀の救いが頼もしい、と教えています。
自我に反攻する者が現れれば争いが起こります。
この世で己が中心であり一番偉いというような高慢心を皆が持っているからです。
真理はというと我を取り巻く、お陰様の中に真理が秘められているのです。このことは我々凡夫には容易には理解不可能なのです。
これをひっくり返す言葉がお念仏の南無阿弥陀仏なのです。
美空ひばりの花笠道中の歌も粋である。
これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ だまって居ては判らない ぽっかり浮かんだ白い雲 何やらさみしい旅の空 いとし殿御の こころの中は 雲におききと言うのかえ






