感動日記 四三四九 弥陀の光 令和六年九月二十九日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

伊勢物語の古歌に在原業平が酒宴の時に「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」桜の散るのをきっかけに、心を悩ませるつらい世の中に長くいたいというものは何もないと、無常で儚い人の世はもの悲しい、すると部下が「散ればこそいとど桜はめでたけれ、うき世になにか久しかるべき」 散るからこそ桜は素晴らしいのだ。

この憂いの多い世の中に何が久しくあるだろうか。

色即是空花ざかり、山川草木悉皆成仏という言葉があります。

桜の花にも佛さまがおられ光り輝いているのです。

それは人には見えないのだろう。

その見えないものを見せてあげようと佛さまが、光背から光を輝かせておられるようです。

如来は我々凡夫を信じておられる、しかし佛さまの方からのシグナルが何もなければ、おろかな人間には信心が薄れてしまうとお考えになられたのではないでしょうか。

親鸞聖人の正信偈の初めに「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と出てきます。

光とは暗闇の中でこそ光るのです。

言うならば己の暗黒を知ってこそ光が見えてくるのでしょう。

誰でもが生きものを殺生しなければ生きてはいけないという宿業を背負いながら生きざるを得ないという地獄の中で暮らしています。

只、気づくか気づかないか、考えるか考えないかの違いです。

子牛のステーキを食べながら、美味しい美味しいと、はしゃいでいるギャルには御仏の光は輝いては下さらないのです。

修行を行う事で佛に近づいた、護摩焚きで煩悩が消されたなどと傲慢になった時には如来は光り輝いて下さらないのではないだろうか。

自らの惨たらしさ暗黒を自覚しなければ弥陀の光は届かないのです。

切羽詰ってこそ真っ暗闇の中に一筋の光がさして下さるのです。

弥陀は何が起ころうが、お前を信じているのだと、同時に光をお前一人の為に輝かせるのだよ、だから私、佛を信じれば自ずとわたしの光が必ずみえてくるのだよ、と言われておられるようです。