感動日記    四三三〇 須念仏 令和六年九月十日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

「須」すべからく、という言葉は余り使いません。

この字の意味はまつ。待ちうける。 もちいる。もとめる。 すべからく…。しなければならない。しばらく。少しの間。必要とする。 わずかの間。など多くの意味があります。

 

私の父方の伯母が二人おられました。

お姉さんが「喜恵」で妹が「須美」という名前でした。

両名ともに呼び名としても変わっていて字としても素晴らしい名前です。

私の好きな言葉に清沢満之先生の書かれた「須念仏」という言葉があり先生の書かれ字も味があって好きです。

さてしかし須らく念仏の生活をしているか、如何にも念仏を信心しているような偉そうな事を言っているが本当かと弥陀が私を疑っておられるのです。

 

その難題の回答が歎異抄に書かれています。

唯円が親鸞に尋ねました。

念仏しておりましても、踊りあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心も起こってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ 次のように仰せになりました。

この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。 

よくよく考えてみますと、踊りあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。

喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは煩悩のしわざなのです。

そうしたわたしどもであることを阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

また浄土に早く往生したいという心がおこらず、 少しでも病気にかかると 死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも 煩悩のしわざです。

果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。

どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき浄土に往生させていただくのです。

はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。

このようなわけであるからこそ 大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく往生は間違いないと思います。

踊りあがるような喜びの心が湧きおこり、また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われることでしょう。

このように聖人は仰せになりました。