一昨日、同業の知人から電話がありました。今、入院しているのだそうです。
体がむくみ腎臓が悪かったようです。
そして糖尿病も進んでいる様な話でした。
彼は今まで殆ど病気をする事無く、酒は飲むタバコは吸う、大食で甘いものも好きで腹も出て小太り、何時かは必ず大病がやってくる、と思っていました。
多分、彼は今まで人が死のうが病気になろうが人事でした。
まさか自分に振りかかるとは思ってもいなかったのでしょう。
電話で話したのですが彼の方から始めて人生について、云々様な話がありました。
わたしは、どの様な人の後ろ姿を見ても気の毒で哀れに思えてなりません。
人は業と煩悩が渦巻く中で四苦八苦の荷を背負い諸行無常の流れの中をもがきながら生きています。
何と哀れな生きものなのでしょうか。
だからこそ人の優しさや笑顔、花の美しさ等が宝石のように光り輝くのでしょう。
そして、その様に哀れで気の毒な生きものに唯一寄りそって下さるのが如来ではないでしょうか。
わたしを寄りどころにして生きてください、間違いなく貴方を救ってあげましょう。
それにはわたしの名前を呼んで下さい。
それが南無阿弥陀仏と言う言葉です。
わたしは耳が遠いので必ず声を出して呼んで下さい、その時、貴方の心に大転換がおこるのです。
如来の心が貴方の心の中に充満するのです。
そして決して心の中から離れないのです。
その事を信じざるをえないのが信心という事ではないでしょう。
信とは決して如来の心が己の心の中から離れないという確信です。
如来は今まで貴方一人を救う為に必死になって努めてきた甲斐がありましたと、わたしに向かって合掌して下さるのです。
そんな拝まれ感謝される己の身ではない己なのです。
かたじけない、勿体ない、と思える人間になりたいものです。
人間には、これほどの幸せが有りましょうか。