感動日記 四二六一 念仏とは今が浄土の心なり  令和六年七月五日 | 雨にも負けず菩薩道

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菩薩の心で人生を生きる。

かなり前の話ですが、ドリフターズの荒井注さんが病気で亡くなった告別式で、いかりや長介さんが弔辞を述べられ、「行くなとは言わない、気を付けて行け。

着いたら場所を取っておいてくれ。

俺も行かねばならないから」「いずれまた・・・」と締めくくったそうです。

その四年後に、そのいかりや長介さんが亡くなられ、そのお別れ会で加藤茶さんが弔辞で「リーダーよ~ そっちでいきなり全員集合なんて言わないでくれよな~ すぐには行けないからさぁ~ 」「宿題やったか?・・」「歯みがけよ!・・」この心から想う気持ちが皆を虜にしたドリフターズの魅力だったのでしょう。

死んでもなお、大切な友人と会いたいという思いがそこにあったのでしょう。

倶会一処とは、共に仏の世界で会いましょう、という言葉ではないでしょうか。

我が家の墓石にも倶会一処と言う言葉を刻ませて戴いています。

この倶会一処とは、生まれたものは必ず亡くなる、という御先祖を前にして仏法を拠り所として生きなさい、との言葉ではないでしょうか。

決して死後の世界で会いましょう、一緒になりましょう、という事ではないと思います。

しかし人間は哀れで孤独だから死後の世界まで考えてしまうのです。

その哀れで孤独な人間に阿弥陀さんがプレゼントされたのが南無阿弥陀仏というお念仏ではないでしょうか。

ある僧侶が倶会一処とは、仏様に会いに往くと言うこと、と申しておられます。

死んでからでは仏さまには会えないのです。

あの世がそんなにいい所ならば早くいった方がいいはずです。

悲しい事があったとしても、辛い事が有ったとしても、今、此処に浄土の花が咲いているのではないでしょうか。それに気付く事こそが仏法の真意なのではないだろうか。

わたしには、どうしても死後、御先祖や愛する人に、倶(とも)に浄土で会えるとは思えないのです。

南無阿弥陀仏のお念仏は今、此処が浄土だからこそ称えられ、生まれるのではないでしょうか。

死んでからでは称えられないのです。念仏とは今が浄土の心なり。