感動日記 四一四五  仏法を聞くは有難し 令和六年三月十一日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

「佛の教えを聞くは難し」とは人生の究極の宝物に巡り合えたような喜びの言葉です。

本来は佛さまに巡り合えるはずがないのです。

ましてや佛さまのお教えを聞かせて戴くなどはありえない喜びであり、自らがこの世に生まれてきた最終の目的だったのです。

有名な西遊記の三蔵法師、玄奘三蔵(602~664)は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に名を馳せた仏法僧です。

いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっていますが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵というのです。

したがって大勢の三蔵法師がいましたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のことになったのです。

 

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。

以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。

その玄奘三蔵と同時代に浄土門の法然の事実上の師である善導大師(613~681)がいます。

大師は聖道門の立場からの『観経』の見方に満足することは出来ませんでした。

こうして山西省石壁の玄中寺で道綽禅師に遇われました。

それは凡夫が本願力によって報土に往生を遂げるというものでした。

同時代に二人が長安の都にいたのです。

しかし現存する資料からは両者の接点は見つからないそうです。

律を大切にする玄奘三蔵と、衆生救済を願う阿弥陀思想の善導大師が会い、お互いに議論を交わしていたならば、現在のような仏教ではなかったかも知れません。

仏法の求めるものは何なのかを考えるには、多くの仏教宗派が議論をする必要があります。

それをせずして果たして僧侶といえるのでしょうか。

宗教の世界にも政治の世界にも多くの宗派、政党があります。

さて人間そのものには種類があるのでしょうか。

人間は人類という種類なのではないでしょうか。

 

国連においてそもそも人類とは何かについて統一された定義、真理が明確になっているのでしょうか。

この定義が合意に至っていなければ人類にとって平和は永遠にもたらされないのではないでしょうか。

根本的には人間にとって幸せとは何かを定める事なのです。

さて世界人類が阿弥陀様の本願に目覚めるような生きものであるのであろうか。

古いものに縛られていたら新しいものが生まれません。政治家は国民の為にあるのです。

有る程度、組織が大きくなると組織の保身、言うならば自分の都合でしか、物ごとを考えないようになってしまうのです。国民をいかにしたら幸せに出来るかなど考えなくなってしまうのです。

政治の世界も宗教の世界も同じです。

大原問答、大原談義ともいわれるようなものを仏教者は行うべきです。

大原問答とは浄土宗の開祖である法然上人が文治2 (1186) 年 に天台宗の顕真の招請によって大原の勝林院で浄土宗義について明遍、証真、貞慶、智海、重源らと問答を行なったのです。

法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し、浄土の宗義、念仏の功徳を説き、弥陀本願の深い妙旨を語ったので、集った多くの人々が信服し、それより三日三晩不断の念仏を称したと伝えられています。

ものの考え方が幾つもあっていい、とは言いますが話し合い議論を尽くした上での結論でなければ真の考え方の違いが立証されません。

 

妥協が許されない程の議論を尽くすべきです。

それを和というのです。

それが大和民族の根幹の考えなのです。

当たり前の反対言葉は有難うだと言う。

有難うが分かれば人生が完成する。

有難うはお念仏と同じ。

有難うは南無阿弥陀仏。