感動日記 四〇七五 感動日記 わたしの誕生日 一月 元旦 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

昨年は心臓病を患い黄泉の世界に行きかけましたが戻って来る事が出来ました。

わたしの生年月日は昭和二十二年一月二十五日で直ぐに七十七歳になり喜寿の長寿祝いの年齢になります。

喜寿の後は、傘寿(80歳)、米寿(88歳)と続き、それぞれが人生の節目のひとつにもなっています。

喜寿とは「喜」を草書体で書くと「㐂」。分解すると「七・十・七」に読めることが喜寿の由来のようです。

一月二十五日は初天神の日でもあります。

人が神になったとされる神社で大きな勢力を持つのは菅原道真の天満宮(天神様)です。数としては全国一万四千社ほどで神社数のランキングでは第四位になります。

柳田国男は人が神として祀られる第一の条件はその人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合であると言っていますが、そのまさに典型がここにあります、と言っています。

昌泰 四年 一月二十五日は 道真が九州の太宰府に追放される事が決定的になった日なのです。道真の怨みの始まった日であるともいえます。

菅原道真は宇多天皇に重用されました。当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使ったのです。 

宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平九年に醍醐天皇に譲位します。所が、これが完全に裏目に出てしまいました。

醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。

そしてついに昌泰四年正月二十五日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。

知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。

道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜三年二月二十五日この世を去りました。

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ」

又、もう一人の偉大な人物が亡くなった日でもあります。

 

 

その人は法然上人です。

上人が死の直前に自身で遺言を記し弟子の勢観房源智に授けたものに一枚起請文があります。

上人には幾多の著作が有りますが、実際に上人が筆をとってしたためたのは、この一枚起請文のみで、この一枚の起請文の中には、法然上人の全生涯の心が込められているのです。

その一枚起請文には「私が勧めている念仏は、中国や日本で昔から知識人によって論議されている様な、仏の姿や浄土の光景を想念する念仏でもなければ、学問をしてその意味を悟って称える念仏でもない。ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏とだけ称えるよりほかないと固く信じてする念仏である。---念仏を信じる人は、たとえ仏教経典の全てを読み尽していたとしても、知識人ぶらずに、何も知らない無知で愚かな人間のように、ひたすら念仏すべきである。【法然・愚に還る喜び】町田宗鳳著より。と説いています。

 

南無阿弥陀仏と称えれば一方的に阿弥陀仏の思いが入り込んでくるのです。

徳があろうがなかろうが、罪があろうがなかろうが問題ではないのです。

「声はこれ念なり、念は則(すなわ)ち声なり」

  

暫く前からですが、風呂に入りながら南無阿弥陀仏とお念仏を称えていますが何故か救われる、ここちになるのです。