感動日記 3597 山岡鉄舟とは 2/18(木) | 雨にも負けず菩薩道

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最近知り合った友人が山岡 鉄舟の一族である、との話を聞きしました。

名前は聞いた事があるのですが、どの様な人物であるかは、不勉強で何も知りませんでした。

調べてみる事にしました。

天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男第五子として生まれました。

母は塚原磯(先祖は塚原卜伝)。

山岡 鉄舟は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家です。

剣・禅・書の達人としても知られています。

家が武芸を重んじる家だったため、幼少から剣術を学び、武術に天賦の才能を示しました。

浅利義明門下の剣客であり、明治維新後は無刀流の開祖となりました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称されています。

身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格でした。

幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成しました。

江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となったのです。

西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の真心に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証したのです。

これによって江戸無血開城への道が開かれることとなりました。

江戸無血開城の中身は鉄舟と西郷の交渉で殆ど決まったのです。

鉄舟は享年53歳で亡くなりました。

「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」と思わせるほどの、鉄舟の死でした。

その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。

今の日本に山岡鉄舟のような人が現れて欲しいものです。