人生の完成とは命を佛さまに預ける事
有難う、言葉の中に光あり
障害の子供を授かり佛に遇う
当たり前、当たり前の中に地獄あり浄土あり
蜘蛛の糸みんなにつながり教えてる
「仏説観無量寿経の大意」[序分]
【私はこのように聞きました。あるとき仏(釈尊)はインドの王舎城という国にある「鷲の峰」に千二百五十人の修行者たち、三万二千人の諸菩薩とともにおられたときに王舎城ではマガダ国王の親子の間に、一つの悲劇が起こりました。
マガダ国の太子である阿闍世が、提婆達多にそそのかされて、父である頻婆娑羅国王を牢獄に閉じこめたのです。
王の身を案じた妃の韋提希は、自分の体に食物を塗るなど変装して牢獄内に食物を持ち込み、ひそかに王に食を与えていました。
しかしそれもわが子阿闍世に発覚するところとなってしまったのです。
阿闍世は怒りのあまり、韋提希を殺そうとするが、家臣に説得されて、この母親を宮廷にとじこめてしまいました。わが子に背かれて囚われの身となった韋提希は憂い憔悴して、耆闍崛山におられる仏に向かって教えを請うたのです。
この願いに応じて自分の前に仏が現れると、韋提希は地面に身を投げ、号泣しながら仏に訴えたのです-「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。
また世尊はどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。
世尊よ、私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの濁悪の世を怨み、願いません。」と。
そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願するのです。】
友達とは何なのかは人それぞれで異なり定義は難しい言葉のようです。
自分では友達だと思っていたにしても相手は単なる知人だと思っている場合などがあります。
人間は相手の事を信用していると思っていても些細な出来事で信用しないようになるものです。
それほど人間同士の信用は空しくなってしまうものです。
しかし相手を見極めながら信用できるかどうかを見定めて暮らしています。
人とは裸で生まれて裸で死んでいく孤独な生きものです。
寂しいのが人生なのです。
その寂しさこそが人間社会とは異なる真実な佛の世界、浄土を自ずと求めているのです。
そして自らで宗教統一を果たし信仰へと向かわざるを得なくなるのです。
南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏