【6月11日】

今日、私は、本当の愛というものは、他のものに危害を与えるものではならないのだと知りました。

エイブラハム・ツワルスキーはこう言いました。
「ほとんどの人は、愛を自分の望みを満たすためのものと混同している。それは魚を食べるのが好きで魚を沢山食べている少年と同じだ。彼は魚を食べるという欲求を満たすために、命ある生き物を大量に裁いているのだ。」

私も、幼いとき、いつしか他人に優しくすると、必ず相手から感謝されるはずだと決めつけるようになりました。しかし、実際はそうではありません。
「自分」という枠組みがなかったほど小さかったときは、母からの「人に優しくしなさい」という言葉を、母から誉められること以外なにも望まずに、忠実に行っていました。その時、人に優しくすると、友達や先生から優しく接してくれることを知りました。
それがきっかけで、次第に私は自分からなにかをしてあげることよりも、他人から優しくされることを望むようになりました。また、そうされるのが当然だと思うようになってしまったのです。
しかし世の中の人々がすべていい人なのだと完全に思い込んでしまったときから、私は毎日数えられないほどの苦しみを味わいました。
だれも、私に優しくしてくれる人なんていなかったのです。
それどころか、私はなにもしない人間になってしまったため、私は無口になり、また誰からも話しかけられなくなりました。
その反動があまりにも大きく、その後私は、
「人間は自分勝手な人間だ」
と嘆くようになりました。
今考えてみれば、それは本当のことだと思います。
そうです、現在の人間は、自分勝手な人間ばかりなのです。もちろん、私も、自分勝手な人間に含まれています。
もし、人間に「自我」というものがなければ、こんなに自分勝手にはならなかったのではないか、と思うこともよくあります。

しかし今日、エイブラハム・ツワルスキーさんの言葉を聞き、少し考え方が変わりました。
『本当に愛する、というのは、自分の損得を考えずに、その対象がそれらしく生きれることを望むことであり、そのような人物になるには、まず幸せを知るために、自分を鍛えることが大切である。そのようにし、「自我」を確立し、それができた上でしか本当の「愛」は成立しない。』

人間に限らず、すべての生き物は、楽をして生きることはできません。そしてそれはいつも、苦しい経験をしたあとに気がつきます。
自分の限界までは走り続けたあと、山の頂上まで登ったあと、私は本当に幸せな気持ちになります。全てのことに対して肯定的になり、目標で終わっていたことを行動に移すことが容易になります。
それは精神的なものにも例えられるのだと思いました。
他人から無視され続けているとき、それを前向きにとらえることが出来れば、そして無視されるという最も苦しい状況を当然だと受け止め、生活する生き方を日々行えば行うほど、誰かに嫌なことをされても動じず「自分自身」に耳を傾け、必要な行動が出来るようになります。
逆に人や物事になにかを求める生き方をすると、裏切られることが多くなり、たくさん傷つき、いつも悪口ばかりいう人間になるのだと知りました。
そのような理由から、「自我」というものはいつ他から大きな損害を受けるかわからないから、本能的に自己を守るためにあるのだと思います。
どんなに辛いことが起きても、「私」は「私」のままで、魂だけが遠くへいき痛みが和らぐわけではありません。なので、自分自身を強くし、痛みになれる必要があったのだと思います。
最近になってやっと、人からどんなことをされても、また自分が大きな失敗をしたとしても、昔ほど苦しく感じることはなくなりました。そして、それはつまり今私は自分自身を大切にする、強くする時期が来たからだと思います。
この時期に、私は自分勝手な行動によって他を傷つけている様々な行動を自覚していこうと思います。まずは、動植物を食べる時「裁く」という経験もせずに無責任に食べているということをしっかりわかっている状態で、食べるようにしたいと思います。


バオバブさんは私の何倍、何十倍も長く生きていますよね?
バオバブさんはどんなものを見て、どんなものを感じてきたのですか?
生まれてからずっと同じ場所にいるバオバブさんは、私たち人間をずっと見守りながら何を見て、何を感じてきたのでしょうか。
会いに行ったとき、それを教えてほしいです。