甦る不朽の名作 『砂の器』!

        今私たちに問いかけているものとは!? 






 わんわん 
管理人

1974年の映画ですが、この最初の作品が、数あるリメイクされた映画や
テレビドラマなどよりも、最も素晴らしいと賞賛されています。
映画の時代背景は、戦前・戦中・戦後に設定されています。
日本映画史上最高傑作だと言う人もおられるようです。 

大変悲しい映画です。
ハンセン氏病=ライ病、などといわれ当時はものすごく怖れられていた病です。
恐れられていたと同時に、すさまじい差別の対象でもあったようです。
今もエイズ患者などに対して、偏見や差別が見られますが、しかしあの当時、
ライ病患者に対する差別は、今のエイズ患者の比ではなかったと語られています。

日本における発症初期の頃は、ウイルスによるものか、遺伝性によるものか、
まだ解明されていない頃には、末代まで祟ると怖れられていたようです。

この病気を発症した本人はおろか、家族や親戚縁者までに類が及び、大変な差別
からなる悲惨なまでの境遇に追いやられていたと記録されています。

もし、不幸にもこの病気にかかったら
仕事を失い、社会から抹殺される運命が待ち受けています。
身内で結婚が決まっていても、即破談になってしまいます。
家族や親戚縁者の様々な行く末には、まさに地獄が待ち受けているのです。


ある話を御紹介します・・・

戦前の頃の話。
ごく普通の家族の中で、不幸にもこのライ病の病魔に侵された人が出てしまいました。
それは、家族にとってもかけがえのない存在の母親だったのです。

ある時期まで、あまり家を出ないようにして隠されていたのですが、病状が進行し、
もうどのようにしても隠し通すことが出来なくなってしまったのです。

その母親は、悲しい決断をせざるを得なくなりました。
家族みんなを集め、お別れの決意を語ったのでした。

『このままだと、家族のみんなに迷惑がかかるので、家を出ることにしました。』

いつかこの日が来ると予想していた、他の身内は悲嘆に暮れてしまいました。
子供は泣きながら、この母親に訴えました。

『絶対に嫌だ、ずっとこのまま一緒に居てよ。』

その日は、ずっと皆で泣き通しだったようです。


母親は、慰めにもならない言葉を言って最後の別れを告げたのです。

『暖かくなって、症状が良くなったら、また戻って来るから。』

『お母さん、絶対に戻って来てよ、約束だよ』

母親も家族のみんなも、決して有り得ない奇跡のような期待の言葉を話して
いると分っていながら、そのように言うしかなかったのです。


その母親は、まだ暗い未明の時刻に、誰にも気づかれないように、ひっそりと
家を後にしました。
わずかばかりのお金と野宿出来るような支度は既に準備してあったのです。


一体どこへ行くというのでしょう。
村から村へ・・・
町から町へと彷徨いながら、物乞いをしながら生活する日々。
夜は、気づかれないように神社で毛布にくるまって寝るだけの寂しい夜。


病状が徐々に酷くなって来たら、もう誰にも気づかれてしまいます。
行く先々で、心無い子供たちから石もて追われる日々がやって来ました。
逃げるようにして、その場所から去っていく他はありません。


あの世には地獄があると言い伝えられていますが、何もあの世に行かなくたって
現世の到るところに地獄はあります。


この映画は、私たちに問いかけています。

手に石を持って、その気の毒な母親に投げつけるのか?

或いは、その手にオニギリを持って優しく手渡すのか?

この二つの決定的な選択を迫られているように感じるのです。



やがて、この母親は、ひっそりと佇む神社の中で静かに息を引き取りました。
誰にも看取られることなしに、とても哀れな最後の刻を迎えたのでした。


この話は、何も遠い昔話などではなく、今現在にも通じています。
まして放射能の影響による様々な問題も大きく浮上して来ています。

今まさに、
人間としての根源的な在り方そのものが問われている時かもしれません!?


その原点に立ち返ったら、あらゆる問題に、その答えが見出せそうです。

とてもシンプルな決断です。
もし、慈愛のある道を決断されたら
その心は、いつか、必ず相手に伝わると思うのです ドキドキ 。


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砂の器 - 松本清張 あら筋
http://blogs.dion.ne.jp/dee1208/archives/2986105.html 


ある日、蒲田の操車場で1人の老人(緒方拳)の死体が発見されます。
その老人は元駐在所勤務の巡査で、生前はたいへん人望があった人物でした。
若い頃から非常に面倒見が良く、地域の人から尊敬を集めていた人でした。
その人が老いて定年後、地方の田舎から初めて伊勢参りの旅行に出ました。
息子や家族から暖かく送り出されての、人生で初めてとも言える、
そして自分へのご褒美のような幸せな旅になるはずでした。
それがなぜ、喧噪に満ちた東京で殺されなければならなかったのか?
 
所轄の刑事たちの執念の捜査が始まります(丹波哲郎、森田健作ら)。
その結果、殺された元巡査が操車場付近の喫茶店で、何者かと話していたこと
が分かります。
さらに捜査を進めるうちに、
容疑者として浮かび上がる新進気鋭の音楽家『和賀英良』(加藤剛)。

和賀は今売り出し中の才能ある音楽家で、有力代議士の娘との婚約も決まっている、
まさに我が世の春を謳歌している青年でした。
しかし、和賀には秘められた過去があり、その秘密を知っていたが故に元巡査は
和賀に殺されのです。

その秘密とは、和賀の父親がかつて『らい病』患者であったということです。
数千年の昔から今なお偏見と差別が続き、業病とさえ呼ばれて忌避された病です。
和賀は幼少の頃、らい病を発病し故郷を追われた父と、地方巡礼の旅に出たのです。
差別感情は根強く、ボロボロの巡礼着をきた親子は、行く先々で石持て追われました。
ですが、父子は強い愛情によって結ばれていました。

徐々に病が進行し弱っていきながらも、父親は精一杯息子に愛情を注いだのです。
その時、親子に救いの手を差し伸べたのが件の巡査だったのです。
巡査は親身になって2人の世話をしました。
お座なりの対応ではなく、本当に心から2人を助けたのです。
戦時中、隔離政策が国策とされていた時代です。
巡査も職務として、父親を施設に送らなければなりません。

しかし強権的な行いはせず、父親を真摯に誠意を持って説得します。
『このままでは、いつ息子に病が移るかもしれない。
息子のことはわたしが必ず責任を持つから、施設に行ってくれ』――と。
父親は涙を呑んで、その言葉に従います。
親子は離ればなれになり、父は隔離施設へ、
息子は父親との約束を守った巡査の元に引き取られます。

しかし、息子は温厚で誠実な巡査になぜか馴染めず、そしてついに家を飛び出して
しまいます。
やがて大阪の自転車屋に住み込みで働くようになり、その自転車屋が空襲で全滅すると、
死んだその店の息子になりすまして『和賀英良』となるのです。
そして苦労に苦労を重ねて、やっと幸せをつかみかけた和賀の前に、
突如、何の前触れもなく老いた巡査が現れるのです。


 ……これが『砂の器』の大まかなあらすじです。

さて、なぜ井上どころが原作者の松本清張までもが、映画が原作を超えた――と
言っているかというと、それは登場人物、特に犯人である『和賀英良』の原作には
ない深い人物造形にあるからでしょう。

実はこの和賀英良、原作では結構セコイ人物で、保身のために殺人を重ねるただの
殺人鬼だったりします。
それも特大音波発信器を使って愛人(とそのお腹の子供だったかな?)を殺したりと、
トンデモ設定のかなりイッてしまっている人間です。
なぜ、読者の共感を得られるような過去を持ちながら、原作ではこんな風なイマイチ
な人物になってしまったかというと……

実は設定上の大きなミスがあるのです(うわ、大作家の松本清張先生に対して、
なんて大胆な!)
そのミスはというと、原作では和賀英良のすでに父親は死んでいる――この一点に尽きます。
つまり、原作では元巡査は伊勢参りの最中に偶然に成長した英良の写真を見つけ、
懐かしさのあまり東京まで会いにきてそれで殺されてしまうという設定なのです。

しかし、映画では違います。
映画では英良の父親は施設でなお生き続けており、元巡査とも長い文通を続けているのです。
行方不明になってしまった息子を案じ続ける父親、それを『息子さんは賢い子だから、
きっとどこかで生きている』と励まし続ける巡査。

巡査は伊勢参りの途中、偶然立ち寄った映画館で成長した英良の写真を見つけ、
東京行きの列車に駈け乗ります。
懐かしさからではありません。
彼にはなんとしても英良に会わなければならない理由があったのです。
巡査は英良に訴えます。
『なぜ、父親と会えないのか? そんなの許されないよ! 
わたしはお前を引っ張ってでも会いに行かせるよ!』
そして、悲劇は起こってしまいます……



父親を生き長らえさせた結果、和賀英良が巡査を殺害したのが単なる保身からの犯行
ではなくなった……と井上は愚考します。
英良はきっと巡査と会いに行く前に、自らの保身のための殺害を決意していたでしょう。
ですが、それが犯行の動機ではないのです。

英良は怒ったのです。
激しい怒りに襲われたのです。
石持て追われる日々でも、英良は幸せだったのです。
大好きな父親と一緒だったのだから。
その父親と引き離した巡査。

英良がかつて巡査の元を飛び出したのも、巡査への恨みが心のどこかにあったから
でしょう。
その巡査が再び自分の前に現れて、今度は父親に会えという。
何て理不尽な!
巡査を手に掛けたとき、英良胸には自分の保身のことなど欠片もなかったのでは
ないでしょうか。
善悪を超えた、純粋な怒り。
悲しい怒り。
映画のラスト、施設を訪れた刑事から見せられた英良の写真を見せられた父親は
涙を流して叫びます。

『知らねえ! こんな奴しらねえ!』

完璧です……
映画のどこからどこを見ても、悪人は存在しません。
それだからこそ、原作では単なる推理小説に終わってしまった物語が、
見る人に深い共感を与える名作に昇華したのです……


以上転載終わり

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