エルサレムを日本語に直すと平安京となる
平安京をつくったのは桓武天皇ですが、その技術・資金の大半は全て秦氏のもの
であり、祇園祭を主催する八坂神社をつくったのは秦氏であります。
というか、日本の神社は八坂神社に限らず、秦氏によってつくられたものです。
日本書記など理解された上級者はこの小林恵子(やすこ)さんの本はいいと思います。
1978年の論文「天武天皇の年齢と出自について」(東アジアの古代文化16号)を
まとめた内容で.......泉湧寺が天武系の天皇を祀っていないことが明るみに出ている。
なぜ天武系は皇統から排除されるのか。それは天武と天智が本当は兄弟ではないと
いうだけではなく,百済王の系譜を引く天智に対して,天武は森羅系渡来人だったから,
という。「日本の正体」99~に詳しく出ている。しかしながら日本書紀は縄文系が古事記
は森羅・ユダヤ系渡来人が書いたものと思われるが立場によって変わってくる。
藤ノ木古墳を調べてみるといいだろう。朝鮮王朝との関係を。
フルベッキが中心になって起こした明治維新が実は南朝革命であったことを知る人は
少ない。鹿島昇は,光明天皇が暗殺されたと見た上で,明治天皇が光明天皇の皇子
(睦仁)ではなかった可能性を述べている。明治天皇の孫を称する中丸薫さんがあるテレビ
で明治天皇は南朝.....と発言して騒然としたことがあったらしい。鹿島昇の説はつまり鎖国
維持を主張する光明天皇に続いて明治天皇も殺されたという説である。なぜ薩長とその
勢力に与した公家たちが,そんなリスクを冒したかというと,明治維新の目的が,
実は南朝革命だったからだという。
古代社会でも最も有名な帰化人といえば『秦氏』であろう。聖徳太子の側近に秦河勝
(はたのかわかつ)が居り、この人が宮廷での雅楽を世襲してきた東儀家の遠祖といわれ
ている。河勝は渡来人であり、秦の苗字が示すように秦氏の出身であろう。
秦氏は雅楽、絹織物、土木、農耕などの技術を持っており、その技術を背景に巨大な富
を蓄え政治的にも影響力を及ぼすようになった。
その秦氏が主導して作り上げたのが平安京であるという。
これはヘブライ語のイールシャローム(エルサレム)を日本語にすると平安京となるのだそうだ。
そればかりでなく、何とエルサレムの付近にはキネレット湖があり、これは琵琶の意味だそう
でエルサレムという街の名とキネレットという湖の名をそのまま写したのが平安京と琵琶湖だ
といえよう。
政治の中枢が江戸に移ってからも、経済の中心として命脈を保ち続けたことは奇跡的な
出来事といえるのかも知れない。
その理由として私的には、やはりユダヤ以前から続く大きな文化的なベースが存在し、
それがユダヤに残った伝統的なものと重なったことにより更に強化されたからだと考える。
(引き続き了解をいただいたここの管理人様の記事を解説・編集・要約しています)
■「北朝」の明治天皇が、「南朝」を復権させたのはなぜか
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1392415 ~ 一部引用
吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした
「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。
ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である。
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、
徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2) 孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・
松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、
維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
3) 薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は
時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。
将軍家茂は、慶応2年(1866年)の6月25日に急死。20才。
孝明天皇は、慶応2年(1866年)の12月25日に急死。36才。
この2つの急死はあまりにも怪しい。「明治天皇=大室寅之祐」説では、さらに半年後に孝明天皇
の皇太子(睦仁親王)も暗殺され、明治維新では、南朝の大室寅之祐が(替え玉として)即位した、
というシナリオである。
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関連重要記事
太田龍「長島銀蔵著「皇統正史」(昭和41年自費出版)を発見する」
http://gold.ap.teacup.com/applet/tatsmaki/200511/archive
(1)南朝の皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いて居り、
(2)北朝は滅亡して居る。
(3)従って、そのあとの北朝天皇は偽朝であり、足利系天皇である。
(4)熊澤大然尊憲王は、明治四十一年、十一月二日、第一回の上奉文を明治天皇に上奉した。
(5)明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統とした。
(6)更に明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳と明記してある。
(7)熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、
(8)遂に国会で大問題と成り、
(9)明治天皇の裁決によって、南朝正統と決定され、
(10)時の桂内閣は瓦解した、
(11)しかし明治天皇が間もなく崩御、そのため南朝熊澤天皇問題は事実上封印された、と。
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我が輩は犬である!原爆先物買ぃの原発奸計アキヒトのパパ
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