福島からのお願い






福島の飯舘村の珈琲の香りでいっぱいだった、ブルーベリー畑の見える珈琲屋さん



前回、上の記事の転載元のふくしま IN MY LIFE 様よりの続きの記事です。



一部のみ引用します。



              


                 ホームページ用フリー素材 バー 仕切り線 (



避難先で「ただで遊べていいわね」と言われた家族がいたようです

ツイッターでたまたま目にしましたが、きっと多くあることだと思います

「被曝してますから」と答えながら泣きたくなったと

当たり前です

泣きたくなります

普通に接してくれている方、やさしく接してくださってる方々がほとんどです

でも中には、きっと悪気もなくなんとなく発する言葉が傷つけることもあると思います



どうか記事の全てを御覧になって下さい → お願い



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


wanton


私は青春時代の9年間を、愛知県の大府市で過した事があります。


その時に、広島県人に対する差別と思われるような言葉を受けた事があります。


私の家族は、幸いにして原爆被爆者ではありませんし、当然この私も被爆二世ではありません


でしたが、職場において、ある40歳くらいの男性から、私が広島県出身者と聞き及ぶや否や、


『 オオ、原爆か 』・・・と露骨に差別性を感じさせられた言葉を浴びせられた事があります。


本人は、差別を意識したような大した意味は自覚していないと思うのですが、しかし、こういった


言葉が自然に出て来るような根深い差別性の土壌が、この日本には確かに存在しています。


大人がこうですから、子供に到っては推して知るべしでしょう。


なにしろ、我が国、日本は何千年にも渡って封建的身分制度に基づいた階級社会があった訳


ですから、今現在においても、それは様々に形を変えて脈々と受け継がれています。


そもそもが、今現在の社会そのものが、完全な差別による階級社会な訳ですから。


学校という所は、知識のみで人間を選別し、差別する心からなる優越感を熟成させるところで


しかありませんし、自分の階級的位置を更に意識して植え付けるところでしかありません。


そんなところで、人の心から、差別心やいじめを取り除くなんて不可能に決まっているのです。


ただ一人前に、建前だけは、大きくスローガンとして掲げる事だけは抜かりありません。


このスローガンは、市役所などの庁舎などにも良く見かけた事があると思います。


しかし、本気で、そんな事を考えている人間なんて、ほとんどおりませんし、行動する気も


サラサラ無いのは、議論をするほどの事もありません。


ホント、建前だけの中身の無い、差別溢れる空疎な社会の現実が、そこにはあります。


『 差別やいじめの無い社会を実現しよう 』 クラッカー


そもそも、こういったスローガンを立案している人達が、差別社会の枢要な位置にいるわけですから。


まあ、ほとんど笑い話みたいな話には違いありません・・・笑。


この差別性の問題は、人間の抱える最も難しい難題として、幾世代にも渡って更に続いていく事に


なるだろうと思いますが、まことに悲しい人間の性というものは、哀れなものであります。





今回、@d2 様が、福島県民のお立場から、心からの切実な心情をブログに書き込まれました。


但し、私が先ほどから述べましたように、厳しい社会の現実というものがあります。


この厳しい社会の現実というものは、なかなか変えようがありません。


差別の現実というものは、身体の例で申しますと、奥深いところから悪いものが湧き出て来て、


身体の表面に出来たデキモノみたいなものと致しますと、取り敢えずは、患部に薬を塗ったり、


絆創膏を張るような事くらいしか出来ないのが実情でしょうか。


@d2 様は、疎開した子供や親御さんの気持ちを傷つけないように願っておられます。


このお気持ちは、本当に尊いものと思います。


さて、本当に一体どうしたら良いのか、皆さんはどのようにお考えになられるでしょうか。





差別やその言葉というものは、目に見えないキリで、人の身体をチクチクと刺すにも等しい


ものです。その時に、差別を受けた人は、目に見えない血を流し続けているのです。


私の読者の人には、その流す悲しい血の色が見えるような人になって欲しいと願っています。


この差別のキリの切っ先は、時として、その人の心臓を切り裂くものとなってしまう事もあります。


いじめや差別による自殺などの多くは、この差別の鋭利なキリが原因でしょう。






しかし、こういった社会でも、一部の人達は、ある事に既に気がついています。


このような、いじめや差別の言動というものは、まさしく自分自身に対してやっている事と


同じなのだということです。


あなたは、相手が弱い立場の人間だと感知し、相手を卑しめたり差別しているように思って


いるかもしれないけど、大きな世界から見れば、決してそうではありません。


あなたと相手の真ん中には、決して目に見えない映し鏡が常に存在しているのです。


あなたは、その映し鏡で、相手の人間を通して、まさに自分自身の真の姿を観ているのです。


相手が悲しんだり憎しみの気持ちを抱いた姿というものは、それは、形を変えたあなた自身の


哀れな心の姿を観ているのに等しいということを。


その事に気づいている人は、決して相手を卑しめたり傷つけたりする事はありません。


私は、御相手の喜ぶ顔が見たい。


幸せな表情を見続けていたい。


あなたが悲しむと、私まで悲しい気持ちになってしまう。


共に喜びあいましょう。


共に悲しみあいましょう。


そして、多くの人達が、ひとつに、つながっていけたら良いと思うのです。






20110809072722_107_3