wedの遊身八卦連環生活

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一年を振り返ってとか、そういう高尚なことは致しません。


 いや、もう、年末暇な人向けに武術の練習に関する、なんとなく今思ってる事、現時点でこれがいいと思ってる事なんていうのを少し書いてみようというだけの話なのです。



一つ目は力のキープ。


 これはまあ発勁できる人向けの話なのですが、普通に練習していたらできるはずなので、書きます。

 この課題は大きな問題で、おもいっきり全身を合わせて動けば簡単な発力はすぐにできるけど、これじゃあ疲れてしまう、もしくは神経使いすぎて実際こいつを使いこなせないぜ!!ということになってしまうと言うのは結構あると思います。


 おそらく、内家拳において、勁が継続的に出るのは当たり前なので、そんなに頑張って出すのは実は過集中でダメなんではないかと思っています。そこで、大事なのが出せる状態をキープすると言う事。


 具体的な方法は、各門派で伝わっていると思うし、うちのことに関しては、套路でさんざんやっているので、大雑把に言ってしまうと、丁寧に練習しましょう!としか言えなくなっちゃうのですが、さらに雑に言うと、おそらくバランスのとり方に気を使うということなんではないかと思います。

 

 自分がその状態の実感を持つかは置いておいて、前述のように勁は打てるけど使いこなせないのは力みが出ているか、バランスが保てなくて次の動作ができない状況に自分を追い込んでいるというのが大きい気がします。これは身体バランスではなくて意識的なことに対しても同じで、偏りや力みがあると使えません。その場その場に応じたバランスを心がけて練習するしかないと思います。

 

 さて、そんなこと言われてもたぶん、ピンと来ない時はピンと来ないと思います。

 

 ここからは、私の勝手な意見ですので、そのあたりはご了承ください。

 

 そこで、大事なことは自分を追い込むこと。これは追い込むことによって気張ってやるとか気合いが入る等の理由からではなくて、追い込まれた状態を作りつつ、それを気にしない、もしくはそこからリラックスするのが目的と考えたほうがいいです。 

 例えば、套路で要訣であるとか、要求であるとかを意識してガチガチに縛ると、緊張してしまったり、意識が偏ったり、体が悲鳴を上げたりします。問題はこれを無理して押し通すのではなくて、ここを入口に楽になるところを探すということ。自然に楽にを探しつつ、次のストレスを求めていくと、割とバランスが取れてきますし、大事な要訣も守られているわけですから、上達しないわけがありません。

 これをもし、組手を含めた対練でやるなら、自分の手詰まりのところをよく繰り返してもらうのが良いのではないでしょうか? 推手でも排打功でも様々なストレスやアンバランスができますし、なにかそれを狙ったところがあるはずです。どんどん崩してもらってその中にリラックスを求めていきましょう。

 そして、気が付けば、なんとなく蓄勁と運勁が整ってきているはずです。

 

 ただし、怪我だけは注意してください。真面目な人は追い込みすぎて、自分で参ってしまいますから、自然に追い詰めて自然に抜け出す、もしくは誰かに見てもらいながらやりましょうね。


 そして、こんなんで本当に力のキープができるのかよ!と思った方は、自分のやってることを信じるのがいいと思います。ちゃんとした武術はだいたい、大事なことは入っているのだから。


 ちなみに、いきなり全部はできませんので、そのへんは各々のレベルと相談するのは大事です。



二つ目、筋をよく伸ばすほうがいい。


 これはストレッチということもありますけども、体の調整や柔軟性の確保だけでなくて、発勁の強化にも必要だし、見た目もかっこよくなるし、もちろん柔軟性がまして怪我をしにくくなります。

 とにかく、割といいことづくめだから、暇だったり、気合の入った練習がしたくない時にはやるといいと思います。

 中国武術の方でしたら、圧腿、提腿がすごくいいです。あと、架式もかなり柔軟の要素がありますし、中の方の筋が伸びます。ぶっちゃけ変形のヨガみたいところがありますので。


 ヨガやってしまうのも手かもしれませんが、中国武術の人はあんまり本格的なヨガをやっていいのかは私にはわかりかねます。


 上半身なら腕回しもよいかと思います。これも各門派の独特な運動がたくさんあるんでしょうね。


 おそらく、内家の方はこの辺あまり伝わってないところもあると思うので、特にお若い方は別に探してたまにいじってみるのものいいかと思います。



三つ目、収功しようぜ!


 練習のしっぱなしはダメです。しっかり収めましょう。

 ようはクールダウンですね。

 季節柄、風も引きやすいし、あったまった体が冷えるのも早いので、要注意です。ちなみにやってる人はわかるはずですが、気功的な側面もあるので、そのへんも踏まえてきちっとやったほうがいいです。自分も忘れがちですので注意しています。

 何をすればいいのか?はこれまた門派によるんじゃないかな?


 私はちょっと站トウをして、簡単な気功をして、気持ちが落ち着いて爽快になったらそれでおしまいにしてます。




以上三つがなんとなくいいと思っていることです。


保証はしかねますが、そんなに間違ったことはないと思っています。もちろん自分の先生の教えが一番大事ですので、そのあたりは胸の内に思い出してみてください。

李存義先生は河北派形意拳の達人です。彼もまた河北省深県の生まれであり、1847年に生を受けて、1921年に亡くなりました。後に形意拳の著作を残しますが、口述筆記だったそうです。彼もまた裕福な生まれではなかったのでした。確か若い頃は車夫をしていたそうです。以前文献でそのように読んだことがありますが、どの本であったか失念してしまいました。

幼年期に武術に目覚めた李は長拳や通背拳を学びましたが、劉奇蘭について形意拳の門に入ります。彼はこの門派で大成するのですが、その間に劉の師兄弟で半歩崩拳遍く天下を打つと言われた郭雲深や八卦掌の董海川からも学びました。なおこの時に董との間を取り持ったのが程廷華であり、実質的に八卦掌を教えたのもほぼ程であったようです。そして、その縁で程派八卦掌には併伝として李存義派形意拳が伝わっているのです。

彼は1890年に清朝総督劉坤一の兵に武術を教え匪賊を討ち功績を挙げますが、昇任を辞退して万通鏢局という保鏢の会社を創立します。その後、各地を回りその折にはいつも単刀手に自ら戦いそのさまがあまりに激しいので盗賊は彼の名を聞くと襲撃を諦めたと言われています。

また、1900年の義和団事件の際に民衆の側につき激戦区の天津において各国軍相手に単刀をひっさげて大活躍しました。この二つの話どちらかのためか、もしくは両方のためなのかはわかりませんが、やがて李は単刀李と称されるようになりました。

彼は義侠の人で己を顧みずに人助けに邁進します。その性、財を軽んじ、義を重んじた彼は金に困窮する人がいると理由も聞かずに金を貸したそうです。また戦いにおいても生涯偽りを用いなかったと言われています。

しかし、おそらくそのためでしょう。設立した鏢局も資金繰りに困るようになり閉鎖してしまうのでした。

しかし、その後、1912年の辛亥革命の後に袁世凱の親衛隊の武術教官李瑞東に招かれて、天津で設立された中華武士会の教務主任になります。

1918年には北京でロシア人ボクサーを破り、政府より一等金質賞を受賞されたのでした。この時の年齢を考えるとおおよそ71歳というから驚きます。ロシア人ボクサーは万国比武大会と称して随分中国人とその武術を馬鹿にしていたのですが、李に一蹴されて小さくなってしまったようです。

彼は老いても試合を受けたことで有名ですが、その最晩年の挑戦者は査拳と彈腿の若き名手、回族の楊鴻修といいます。結果は李の敗北に終わりましたが、その挑戦をまっすぐに受け止めて、彼を評価したために義気人に優る李存義は今もそこにあると却って世の中の人は尊敬したのだそうです。

余談ですが、形意門は山西派の車永宏、河北派の郭雲深、孫禄堂、同じく河北派で彼の弟子の尚雲祥など貧しい出身の達人が多いのですが、そのため人の痛みを知っていたのでしょう。李だけでなく、大成して人に施しをしながらも貧しい暮らしを続けたようなエピソードや克己して文を修め、後世の人に本を残したなどの話がいくつもあります。その中でさらに義気の人と呼ばれた彼はどれだけ人を愛し、正義を愛したのでしょう?

激動の時代にどう生きるか? 自らも決して楽ではなかった生の中で己を磨きまっすぐに生きた男、それが単刀李こと李存義なのです。


さて、我が八卦掌は清朝にゆかりの武術ですが、清朝とはなんなのでしょうか? あくまでもかなり大雑把な説明なのですが、少しその始まりを取り上げてみましょう。

まず、清朝を作った人々ですが、彼らは満洲族と言って、中国の所謂漢人(夏華の民でも良いのですが)ではありません。彼らの起源は今の中国東北部から朝鮮の北方にあります。今はそこは中国の一部ですが、かつてはそうではありませんでした。万里の長城があることでもわかると思いますが、そこは北方の人々が暮らす、中華世界の外側だったのです。

とはいえ、歴史的には何度も中国と関わりを持った土地でもありましたし、関係を持った人々でした。きっと騎馬遊牧民の中原への侵攻は中国史を眺めてみた方なら必ず目にしたことがあると思います。満洲族は騎馬遊牧民ではありませんでしたが、小規模の遊牧や農耕を伴う狩猟採集生活を送る人々でした。北東アジアに住む、所謂ツングース系の人々であり、長白山(朝鮮系の人々には白頭山と呼ばれています)を聖地として、北方ユーラシアに伝統的なシャマニズムとチベット仏教を信仰していたのです。

その前身は女真族と言って、やはり、中国北方に現れて、かつては“金”という帝国を築きました。金はやがてモンゴルに滅ぼされます。金の人々はどうしたかというと、概ね漢族に吸収されたか、あるいは故地に帰れたものは帰ったようです。王朝時代に随分と中華文化を受け入れていますので、かなりの数が漢化したことでしょう。

しかし、それでも女真族は故郷で生活を続けているグループが多くいました。それらは元、つまりモンゴルに従って、日本に攻めてきたものもいました。しかし、そのモンゴルの覇権も終わりに近づくと、彼らは小さな部族ごとのまとまりで生活をするようになり、モンゴルの後の中国の支配王朝である“明”に朝貢するようになるのです。その間に度々朝鮮と国境争いをしていたりもします。ちなみにこの頃の女真は女直と書かれていることが多いようです。

女直は明も後半になると、大きく三つの文化的まとまりと十三の部族にまとまっていきました。

建州女直…5部、自称をマンジュ(満洲)といいます。

海西女直…4部、自称はフルンといいます。

野人女直…4部、あまり自覚的なまとまりは薄かったようですが、一番勇猛な人々でした。

このうちの建州女直から出た、ヌルハチという指導者は、明の政策を乗り越えて女直族をまとめあげると、後金と言う王朝を立てます。ヌルハチは明との戦で死んでしまいますが、その息子であるホンタイジはモンゴルのチャハル部を倒すと、そこに元より伝わっていた伝国玉璽を手に入れて、民族の名前を正式にマンジュ、つまり満洲と改名します。その時に王朝名も後金から“清”(満州語ではダイチン・グルン)に改名し、明の内乱に乗じて、長城の内側に侵攻すると中国の政治的中枢を掌握します。そもそも自壊しかけていた明に抗う術もなく、一部の人々は広東や雲南、台湾に逃げてその後も抵抗活動を続けますが、それもやがて潰えていき、ついに中国は満洲族の皇帝の支配する国になるのでした。満州人は中国を征服しましたが、この時に中国にもたらされたものはといえば、辮髪というおさげ、旗袍という今のチャイナドレスの原型と言っていい服装、そして、長く平和な治世でしょうか? 

辮髪は満州族の習俗で前髪を剃って、後ろの髪を三つ編みにしました。また、両把頭というお団子頭も満州女性の髪型だったようです。旗袍は満洲族の服装で、ズボンに横にスリットの入った長い上着を合わせたもので、騎馬する満洲族の生活に密着した服装です。風が懐に入って体が冷え無いように合わせが横にあるのもそのためでした。今もチャイナドレスはスリットと独特の袷ですよね? また、八旗という軍隊もつくり、満洲族やモンゴル族を八旗に振り分けて、北京周辺を固めました。これとは別に緑営という漢人の軍隊もありました。行政では明からも多くを受け継いでいました。科挙などもその一つです。

そのほかにも清は多民族国家でしたので、様々な称号を持って、多くの民族の上に君臨したのですが、大雑把に言えば、中華世界、モンゴル高原を中心とした北東アジア遊牧世界、チベット仏教界の三つが大きなところでしたので、中華皇帝、大ハーン、護法王の三つとなるでしょう。

もっとも、遊牧世界とチベット仏教界はかなり密接な関係がありました。その話はまた別の機会にいたしましょう。

また、南方に逃れた漢人勢力の中から反清の秘密結社が多数生まれ、これが南方武術の成立に大きく寄与することになりますが、これもまた別の機会に。

本当はこの中にいくつもの戦争や事件を含むのですが、今回は概要までで切り上げたいと思います。