暴走少女Aの徒然草 -13ページ目

暴走少女Aの徒然草

暴走少女による暴走少女の日常および愚痴となっております。
かなり駄目な人間によるものですので、耐性のない方はお引き取り願います。
見る場合も、自己責任ということでお願いいたします。

最近、死刑になるために人を殺したと言うニュースがありました。
自力じゃ死ねない。
だから誰かを殺すことで、自分も殺してもらおうと。

死刑は昔からある処罰のうちでも最も重い罪を犯したものに与えられる罰です。
切腹、ギロチン。。。罰と称して人を殺す人までいます。
その一方で、前述のように自分が死ぬために他人を巻き添えにする犯罪者も増えています。

死刑は必要か否か?
実はそんな論争すら起こっています。
死にたがりを合法的に殺して何が悪いと人が言えば、
死にたがりを殺しても罰にはならないと言う人がいる。
確かに、死にたい人を殺すのは彼らにとって本望ですね。

そもそも、罪を犯す人たちの大半は、罰せられたくて犯罪を犯すのだという説があります。
上記の事件がいい例ですね。
快楽殺人鬼でもない限り、普通の犯罪者は少なからず「自分は劣っている、ダメな人間だ」と負い目を感じています。
だけど誰も気づいて助けてくれないから、余計に自分が悪いのだと思い込む。
そして、そんな自分を強制的に正して欲しくて、
また、世界から抹殺して欲しくて罪を犯すのです。
エゴイスティックで、マゾヒズムに溢れた自己嫌悪。

そんな反面、オウム真理教のような人たちもいます。
自分ではなく、自分を受け入れてくれない社会を正したくて、一矢報いたくて犯罪を犯す。
挙げ句、それを世に知らしめるためだけに自分や他人を殺す。

しかしこの二つは実は似かよっているのです。
結局のところ、自分も世界も嫌いなのですから。
違いは一つ、手段か目的かです。
自分のために他人を手にかける。
その行為に込められた意味が内へ向かうものなのか、外へ向かうものなのか。
要は、死に意味を持たせたいのかどうかですよね。

しかし、巻き添えになる方はたまったものじゃないでしょう。
理不尽な死。
誰もが彼女、彼らに同情するでしょう。
でもその理不尽な死にすら憧れを抱く者もいるのです。
労せず、また怨恨ならば殺したいほど誰かに想われて死ねたのですから。

「嫌い」という感情には、二種類の意味があります。
一つは「好きだった」ゆえの「嫌い」、いわば「執着」です。
そしてもうひとつが正しい「嫌い」の定義である「無関心」です。
嫌いすぎて顔も見たくない、というアレですね。
「殺したい」くらい「嫌われる」のは前者の執着。

いきなり私事で申し訳無いのですが、実は私も、誰かに殺されてみたいのです。
別に、方法にこだわりはありません。自殺でもいいっちゃいいですが、それではあまりに芸がないので、他殺がいいなと。
例えば、狭い歩道に横に広がった同級生を追い抜くために車道に飛び出したら、偶然走っていた車に轢かれるとか。
毎朝考えています。
ネットで知り合った彼氏に刺されても文句なんか言いません。寧ろ、好きな人に殺してもらえるなんて本望です。
だって、そうしたら私にも、誰かに死んで欲しいほど恨まれるくらいに影響を与えられていたってことでしょう?
私にもそれだけの価値はあったということでしょう?
そう言ったら、彼氏は死ぬなと言ってくれましたけど。そんなことを言ってる間は殺される価値もないと。
それじゃあまるで私は要らない存在みたいじゃないか。
わかってはいましたけどね、居ても居なくても同じどころか、いないほうがマシな人間だってことくらい。

でも誰かに殺されてみたい、そういう想いでいっぱいな人は私だけじゃないはずです。
刑務所は、法律は、罰則は、死刑は、望んだ人にこそ与えるべきです。
明らかに人とはズレきった価値観なのに、普通に埋もれてしまった異常者を、どうか異常者としてそれを認め、その上で罰してほしいものです。
でなければ私たちのような「異常なのに普通に見える」人たちは救われないと思うのです。