唯識の思想を読み進めていくと
自分に質問しながら読み進めていく中で
大きな間違いに気づく。
あかん!間違いに気づいてしまったので
書い直さんといかんくなった。
書き直しました。
さて
間違いはどこでしょう?
\シランガナ/
「色即是空」の区切りは「色、即是、空」
\早く言って/
「即是」とは、二つのものが全く一体不二であること。
目的から間違ってたという
誰や色即是空で
ちゃんと調べもせんと
是空て切り取ったやつ。
\おまえや/
僭越ながら
この部分も多少
書き換えさせて頂きました。
珍しく感情の言語化
完璧じゃね?思った自分が恥ずかしいです。
無意識ついては
個人的にはフロイトに1票。
麻原彰晃のような事例もあって
ヨーガは怪しいという思い込みは、
いまだに根強い。
この胡散臭さが
覆されるかどうかは気分次第。
ヨガって、おそらく
ちゃんとやればスタイルよくなるし
何より肌も綺麗な人が多い。
元芸能人がよく
インストラクターなってるが
その人たちも
枕営業や性被害により
本当に極限まで思い詰められ
追い込まれた人が
生きる上で必然に手に取り
やってくうちに救われて
芸能界を引退して
ヨガの先生になってる印象ある。
(芸能界では)
芸能界で
オモチャにされ
疲れ果てたが
死を選ばなかった人たち。
紗倉さんのように
セックスが三度の飯より
大好きではなかった人たち。
そういう印象やバイアスはあれど
無意識(深層心理)が
ヨーガによって
発見されたものとは思い辛い。
台湾の整体なんかは、
あえてヨガという言葉を使わず
気の流れで全身の流れを
解きほぐす人たちもいたり。
ケチな私が一万払って
全身やってもらったけど
本気でつき抜けるし気持ちいい。
施術者は同性でしたが
マッサージ
やられてるというより
一緒に重力に任せて解してく感覚。
この台湾式という
お金払ってやって習った
フィールドワークだけで
目から鱗で
リフレクソロジーサロン、
辞めたから。
サラリーマンだから売上の心配もなく
他人に気つかうことなく
一人で優雅に営業できてたのに。
客が来なくても給与は貰える問題にも
腑が落ちなかったし
1店舗1人が基本なので客が来れば過労。
そんな中で行き詰まり博打で予約した
力を加えない無重力のマッサージは
リフレクソロジーを辞めた
変数の一つでもある
その他もキンタマ見せられたりして
気持ち悪くなったからやめた。
>
フロイト
無意識の存在は、正常人の記憶違い
言葉の使い間違い
あるいは心身症の患者の言動などの
観察を通して仮定されたもの。
フロイトの無意識の概念に1票というのも
精神科医による洗脳で
記憶のすり替わりを起こして
親を殺した人間までもいることを
見聞として先に知ったからかもしれない。
知能指数が低そうな
私だから思うわけではないけど
記憶力って限界ありそうだし
ドラマフォーカスという言葉もあるくらい
人類の承認欲求などを含めた
エゴイムズの中には、
ヒロイン、ヒーロー症候群みたいな
無駄にドラマティックに
自我に熱い人も存在すると思ってるから。
自己顕示欲や承認欲求と同じ
被害者意識もその一つとして認識している。
ここでいう被害者意識は
プロ被害者にのみ対してだけども。
自己顕示欲や承認欲求
この2つによる
ビジネスでの欲求はさておき
(バズり祭り立てられたら
自分では降りれない覚悟は、
できてるんだろうから)
自己顕示欲や承認欲求については
覚悟のない人らの
僻み妬みから来るものの方が
個人的には気持ち悪いけど
被害者意識はプロこそキモイ。
病気でなくて
ビジネスだからキモイのか。
しかし
その境界線は識だからこそ
程よく曖昧。
当たり前だが見る人によって
違うのだろう。
識はけして
空間的な大きさをもつものではなく
しかも
『あるようでなく、ないようであるもの』
と
唯識思想については今はこの辺で。
小説ではないので
誰かの感情の言語化に心を震わす感覚とは
ちょっと違うのですが。
まっ
ただ引用してるだけ状態で草。
目的は
認知を虚無でなく空にすることです。
一瞬でもイイ。
どうせ生きていけば水が濁る時は来る。
唯識思想を読む理由は
『あれもこれも無いんか〜い』と突っ込んで笑おういう。
今のところ
アウトプットにもならないですし
感情や深層心理の言語化にしかすぎないが
今は、まだ完読してないので
感情の言語化を一個だけ。
過去の感情の中の
わたし個人の言語化
唯識の思想の20ページだったか。
本当は
こういう粛々とした本は
音も何もない環境が望ましいのですが
うちは婆ちゃんが
生粋のテレビっ子で。
テレビを
一日中つけてないと寂しいという人。
テレビが雑音でしかなくなりがちな私。
(3Sの概念が見え隠れし過ぎててウザイ。
エロを携えた成田悠輔ですらも)
ちゃんと見れば
面白いものもあると思う。
やっぱり凄いなという側面もある。
がしかし
満州流れの満州立ち上げ
政治、芸能界での韓流推しも含めて
マスコミには、
うんざりしてるのも
また一つとして事実。
だから婆ちゃん留守の時は無音です
風や車の音しか聞こえない。
車もたまにしか通らない。
でも婆ちゃん茶会から帰ってきたら
耳を塞がないと
ずっと喋りかけてきます。
今や、ただの箱な
テレビみてても
悪口や上澄みだけの賞賛。
比べて私らの遺伝子は的な話を延々。
科学的にも
どうしようもない他人への依存と僻み。
いつもそういうわけではないけれど
お互い様かもしれないけど
そいういう
俗物感覚からは
耳を塞ぎたい時もある。
こうやって本を取り
深読しようと試みている時は
特に、そう思える。
選択できることの有り難みを
噛み締めるべきですよね。
紗倉まなや
B面成田悠輔や
ひろゆきを
無理に
選択しないでもいい。
だが婆ちゃんも
結構な雑音なので
無音ではない。
しかし歌詞があると
読書が疎かになる。
だから音だけを流すことも多い。
焚き火や雨の音も持ってはいるが
婆ちゃんの声の方が
デカ過ぎて上回るので
自然音ですら
大音量では鼓膜が破れそう。
だから現在はヒイズミさんとこの
ピアノ、
ウッドベース、
ドラムの音を聞きながら
読書してるわけです。
YouTubeの拡張子を変更して
聞いてるだけですけど。
シャレ被って
艶〜に
レコード回したりな
音質にはこだわって無いです。
その中に
千本桜という曲があります。
1人1宇宙の中に
牢獄のように閉じ込められている人間
それなのに
私たちは一つの共通な
同じ世界の中に住んでいると
思い込んでいる。
心の中にある
木の映像(観念)があるだけであり、
各個人が言葉をもって、
その映像をいわば外に投げ出し
あたかも一本の木があるか如くに
認め合ってるに過ぎない。
唯識の思想より
極端な例
もしも末期癌と宣告されたら
たとえ桜の咲く春の季節であっても
暗い灰色の世界に一変してしまいます。
わたしは、
この映像を親族の宇宙により知り得ている。
モテモテの親族で若い時に末期癌で
抗がん剤でボロボロなった視力で
病室から桜を眺めていた。
儚げに見ていたという他人の話。
そのフレーズは私が見たわけでなく
祖母から聞いたのです。
大学病院に桜なんてあったか?そう思うけど
親族の器の最期を知って以来
涙無くして桜を見る事はなくなりました。
末期癌の親族の目に、
どのように映ったかも分からないのに。
だから
私はNHKの離島の若い医師と桜の木を植え続け育てる
爺さんとの因果関係による
花咲か爺さんからの
若い先生への最期の言葉に
涙を流し
だから私は
桜より梅が好きなのだろうと思ったという。
この20ページを読んだ時には
ヒイズミさんの千本桜が
タイミングよく流れていました。
たまたま時空があった感覚です。
無重力演奏だから
いつもおちゃらけて見えるヒイズミさんの演奏
千本桜も暗くは無いが真面目。
ヒイズミさんの桜の識なんでしょうね。
さあ
どこを書き換えたでしょう
\だからシランガナ/
ワンコインで満足できる食事は?
▼本日限定!ブログスタンプ