こんにちは。
ずいぶん間隔があいてしまいました。
アメ限記事に色々吐き出して、かなり楽になりました。
先月出勤しようとしたときに左腕をドアノブにぶつけてしまい、
ずっと違和感がありました。
バレエでバーを握った手をアンオー(腕をあげる)動作が痛くて、
うつ伏せで肘を曲げるときも痛くなり、思い切って整形に行きました。
以前ブログで書いた腰痛のこともお話しました。
一応異常なしでした。
最近寒暖の差が激しいので、カロナールが欠かせません。
湿布とカロナールをもらいました。
年取ったな~と落ち込みました。
先日ある発表会でシューベルト即興曲を披露することができました。
動画も撮ったけれど、その前に色々書きたくなったので今回はこちらから読んでね。
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シューベルトの伝記を図書館で借りました。
今はヤマハ出版社から刊行されています。
各章の最後にQRコードの記載があり、
作曲した作品がすぐ聴けるようになっています。
私が借りた本は2006年出版だったので文章だけでした。
彼の頭はいつも音楽が奏でられているようで、
起きたらすぐ五線譜にペンを走らせられるように眼鏡をかけて眠っていたそうです。
彼はとても天才肌なのに、内気で謙虚で自分を誇ることをしませんでした。
でも彼の友人たちは彼の才能に惚れ込んで、彼の名前を世間に広げようと集まってきました。
シューベルトは決して威張らなかったから、人徳があったんですね。
一方で彼はお金に無頓着で、
自分の作品に対して評価もしてなかったのがもったいないです。
それくらい作曲のことばかり考えていたんだろうけども、
彼は自己肯定感が少なかったのかもしれないですね。
彼が31歳で亡くなったのは性病のせいですが、
ある貴族の家で「高額のアルバイト代を提供する」とのことで、
ハンガリーまで行ったときに。。
彼は思ったよりも滞在が長くなってホームシックになってしまい、
その家のメイドさんから病気をうつされたそう。。
実は彼は結婚を約束した女性がいて「(経済事情が安定するまで)あと3年待ってほしい」と
言った矢先でした。
この女性は6年待ったけども、ついに他の男性と結婚してしまいました。
シューベルトのお父さんと言えば、小学校の校長先生で常識的ではありましたが、
音楽に対しては深く理解が及ばない人でした。
といっても、シューベルトに音楽の才能があることはそこそこ理解していて、
合唱団に入れてたんですよね。
ベートーヴェンのお父さんは宮廷歌手だったけども、
アルコールに溺れて暴力をふるったりしていたので、
ベートーヴェンのところよりはよかったのかしら。
シューベルトのお父さんは「息子が経済的に安定できるように」と教職を
用意していたけれども、シューベルトは音楽の才能だけがずば抜けていて
常識を超えていたんですよね。
決して悪いお父さんではないし、むしろよくあるタイプですよね。
相性がよくなかったんでしょうね。
「ほどよくあれこれできるほうが幸せだったのかな」
と凡人の私はおもいました(笑)
作曲の才能はあるのに世渡りは不器用で、読んでいてせつなくなりました。
でも彼の才能を認めてくれる友人に恵まれたことはよかったなあと思いました。
シューベルトは
「ぼくは一生ずっとさまようことが宿命づけられているのかもしれない。
いつも自分がはみ出し者のような気がしていたのはそのせいなのだ。
金も地位もほしいと思わないのは、こうした運命に定められているからなんだ。」
といつも漠然とおもっていたみたいです。
私は凡人だけど、「どこにも居場所のない」気持ちはすごく理解できます。
早くにこの世を去ってしまったシューベルトだけども、
その数年後にライプツィヒに来たシューマンがシューベルトの兄に会って、
交響曲の楽譜を発見し、膨大な楽譜を分類しました。
シューマンはその楽譜を友人のメンデルスゾーンに見せました。
(今風に言うとシェアしたということかしら)
そして演奏旅行でウィーンを訪れたフランツ・リストが、
シューベルトのリート(歌曲)をピアノ風に編曲してコンサートで披露しました。
シューマンと旧知の仲のヨハネス・ブラームスはシューベルト作品の出版に
尽力したそうです。
ここまで著名な作曲家とシューベルトが繋がり、
当時10代だった私のところまで楽譜が届いたこと、とてもミラクルだなあと思いました。
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先週郊外の海浜公園にネモフィラを観に行きました。
バラ園も近くにあったのを思い出しました。
今回やっとやっと。。
2年越しでシューベルトの薔薇に出会えました。
ずっとずっとチェックしていたんです。
あの「野ばら」ではないけれど、
シューベルトへのリスペクトから誕生した薔薇です。
「エクセレント フォン シューベルト」です。
ずっとずっとチェックしていたんです。
蕾がほとんどでしたが、GWになったらまた観に行ってみたいです。