「死は本当に通過点なのでしょうか❓」
と聞かれた。
知人に頼まれて、ある方と話をした時のことだ。
この方は病気になってから、自分の人生について考えてしまうことが多くなったという。
そして魂や来世のことに思いが向いていき、そんな中でその言葉を聞くことが何度かあったが信じることができないというのだ。
信じるまでに至らない理由は2つあるそうだ。
ひとつは若い頃から宗教等になんとなく胡散臭さを感じていて、バカバカしいとさえ思ってきた人生を送ってきた。
それは未だに少し残っているそうだ。
ふたつめは、その話をしてくれた人たちも結局は死んだことがないではないか❗ということだ。
現実重視、自分を信じる重視で生きてきたので、いわゆる宗教的なものやスピリチュアル的なものを信じる人たちを依存や逃避しているとしかみていなかったという。
話していて、その方の率直な人柄を感じた。
だから単刀直入に聞いてみた。
「今の貴方は、(死は通過点である)を信じたいのですか❓」
すると言葉を探しながら慎重に答えてくれた。
「たぶん信じたいから聞きたいのだと思う。」
私自身は、死は本当に通過点だと確信している。
確かに今世では死んだことがあるわけではないが、実体験として、肉体を超えたものが確かにあると言える。
人生で何度か肉体を超えた状態を体験した。
一番幼い頃はまだ2歳にもなっていない、ハイハイしている時だ。
それから何度かの体験がある。
いつも自分自身と自分を取り巻く状況を上から見ているのだが、遠くの状況や人の話などもすべて見えたり、わかったりする。
いくつかのことをその時そこにいた人に聞いてみたが、上から見ていた通りだった。
そしてその状態にある時は必ず揺るぎない安心感を感じている。
そして人の死に接する経験の時、または死期が近い人と接する時に感じることがある。
それは亡くなる前から、肉体にその人がいないとわかることだ。
意識がない状態の時に一次的に魂が肉体に戻った人の驚いた顔も見たことがある。
急に周りの人に呼ばれて目を開いたのだが、その時の表情はたいへんな驚きの表情だった。
すぐにまた目は閉じられたが、急に肉体に引き戻されて驚いたのだと思った。
「死は通過点にすぎない」という言葉は誰が言った言葉なのかはわからないが、私はこの(通過点)という言葉が重要に思う。
なぜならば死の体験は、私たちが時間という夢の中で簡単に次へと移行している現実体験と何も変わらない体験のように思うからだ。
私たちは自分が体験したいことを作り出して体験している。
だから自分が信じている(死)という体験を作り出すと思えるのだ。
そう思い始めるキッカケになった体験がある。
義理の父が他界した時に夢に現れて言ったのだ。
「真美❗頼むな❗真美にしか頼めないことだから頼むな❗」と。
夢の中では「私に頼まれても困ります😥」
と言いながら義父を追いかけようとするが、私の前にガラス戸があり、声は届かず義父は消えてしまった。
お通夜、告別式も終わり、主人の手伝いで初めて仕事場を訪れて驚いた。
夢に見た場所だったのだ。
それで義父の夢はただの夢ではないと思ったのだが、実際に義父が何を頼んでいたのかはわからなかった。
それからだいぶ経ってから、義父が住んでいた家の中を霊視すると、拳かそれより少し大きめの石が部屋の中にころがっていてすごく気になった。
気になるので、とりあえず光で石を満たすと石は光になって消えていった。
その石が義父だったような気がして、なんとなく主人にその話をした。
すると主人が言った。
「お父さんはいつも、人間なんて死んだらただの石っころだ❗と言っていたからなぁ。」
だからその人に起こることはすべてその人が決めると思うのだ。
今何を信じているかで次の体験を作り出している毎日と、(死)というものも同じ延長線にただある体験のような気がする。
宗教を胡散臭いと思うならば、それは無理に信じる必要もない。
気になることの答えを求めて右往左往していれば必ず答えを引き寄せる。
貴方が今それを求めているからだ。
そんな話をした後でその方が言った。
「もう少し早くこんな気持ちになっていたらよかったのに。」と。
でも本当に早いも遅いもないのだ。
今それを信じ始めているのならば、必ず辿り着く。
何もかもすべて自分が決めて体験しているのだから心配無用だ。
私はその辺にさまよっている幽霊たちもそこは変わらないと思っている。
体験しようと決めたことを体験して、体験し尽くしたら納得して次へと進む。
そこにはきっと少しの違いもない。
すべて自分が決めている。