私は、人や家などに取り憑いている霊体を光にかえす時に龍神や不動明王などの力をかりる。
先日の浄霊の時にお客様に聞かれた。
浄霊の後に、ご自身のエネルギーの整え方を伝えた
時に不安そうにその方が聞いてきた。
「武藤さんのようにできる自信がない。武藤さんはそれだけお不動様を信じられていて、私には信心が足りないということなんですよね。」
そういうことでもないのだ。
確かに信心というものも人を強くしたり、安心させたりするために大切なことかもしれない。
でも一番大切なことはやっぱり自分を信じられるようになることだ。
そのためには自分が見ている世界を使って、自分の錯覚や勘違いをみつけてひとつひとつ気づきを得ていくしかない。
本当の私たちはすべてとひとつであるから、何かを心配したり、不安がったり、攻撃したりなどはできないのだ。
それがわかってくると、起こることに対してのコントロール欲が少なくなってくる。
起こるがままにしておくしかないことが少しずつわかってくる。
コントロールしようとすると不安や焦りが付いてくるのがわかるようになる。
よくみているとわかると思うが、うまくいったことも失敗とみえることもすべてにおいて個人のコントロールなどは及ばないのだ。
そもそも個人があると思っていることが錯覚で、そこにしがみついているから世界はひどく面倒になるが何もやることがないとわかれば焦燥感も小さくなっていく。
私自身も以前は考え過ぎだった。
すべてがひとつであるならば、
(私の仕事って意味ないよなぁ❓)とか。
「こうやってエネルギーを整えて下さいね」とお客様に伝えながら(これもコントロールしろと言っているようなものだよなぁ❓)とか🤣。
毎日自分に対して❓❓❓❓だ。
更にはやることなすことが自分の予想とは全く違う様相をみせることに疲れてしまった。
自分はどうすべきなのか、何が本当なのか、自分にはまだ何かが足りないから迷うのかもしれない、なんて思いが心底面倒になって「どうでもいいや❗これだけやってここなんだからここでいいよ❗」と思うと開き直ってしまった。
そうしていて気づいたら・・・、
劇的なことは何も起こっていないのに、起こることのすべては私にとっては当たり前でありながらも奇跡のようになっていった。
日常は続いていき、起こることは相変わらず起こり続ける。
「つまらないなぁ☹️」と思いながらも、これが起こっていることも不思議な奇跡みたいだ。
起こるべきことがただ起こっているだけ。
龍神も不動明王もその他すべてのものは当たり前に私とともにある。
だから信じる必要もない。
私が不動明王や龍神を信心しているかどうかなんていうよりも、当たり前にひとつなのだ。
信じる必要があるということは二元的世界の中でだけだ。
自分を信じることができるようになれば、自分とひとつのものを信じられないわけがない。
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