2024.10 NO.215   さいん  VS さい
 日本固有の「世間」には、「ゆるし」という包摂的側面と、「はずし」という排除的側面があると、『なぜ日本人はとりあえず謝るのか』(PHP研究所)の著者である佐藤直樹氏はそう説く。

 2020年5月号 NO.132 (「せけん VS いけん」)にて、「ゆるし」に触れた。今回は「はずし」に言及する。
 古来より洋の東西を問わず、人は、罪を犯した者を忌み嫌う。それで聖書にも孔子の書にも「罪を憎んで人を憎まず」と諭す。
 しかし、日本の「世間」における、ケガレ(穢れ)としての「はずし」は中々消えそうにない。自民党批判の受け皿として政治団体「日本保守党」を立ち上げた、作家百田尚樹氏までもが、近著『大常識』(新潮新書)にて、「罪を憎んで犯罪者も憎む」と公人に近いベストセラー作家が大非常識なことを言う。「罪を憎んで人を憎まず」は、貧しさから盗みを働いたなど情状酌量の余地がある場合に限るべきとする。百田氏は国民の分断を煽るトランプ大統領を目指しているのか。
 日本での再犯率は約50%になるという。日本財団HEROsの記事によれば、犯罪加害者の社会復帰の過程や出所後の社会の受け入れ体制などについてのサポートや大衆の理解は決して高くなく、結果として社会に馴染めず再犯に繋がっているという。その中で、元ボクシング世界チャンピオンの村田諒太さんは大学時代の後輩が罪を犯し服役した経験から、出所者の更生ならびに服役後の社会進出の支援活動をサポートしているという。
 映画界も、問題提起、大衆の関心喚起を行っている。有村架純さん主演で2022年1月封切の『前科者』(WOWOWドラマは2021年『前科者 -新米保護司・阿川佳代-』)は、無報酬(報酬制の導入が検討されるも、社会奉仕を謳う保護司法の精神にそぐわないなどの反対意見も少なくない)なのに一筋縄ではいかぬ前科者の社会復帰を手伝う、頭が下がる「保護司」の存在にスポットを当てる(日本アカデミー賞も迫真の演技の主演有村架純さん、助演石橋静河さんに対して授賞するなら、賞としての権威や価値がもっと高くなると思うのだが)。
 役所広司さん主演の『すばらしき世界』(2012年2月公開)では暴力団とも関わり殺人を含む前科10犯の主人公が第2の人生を歩むにつき、橋爪功さん扮する弁護士、梶芽衣子さんが好演する、心優しき弁護士夫人、北村有起哉さん演じる困難な職探しに親身に寄り添うケースワーカーなどの働きかけにより主人公が社会に適合しかけていく。その光が見えた矢先持病の発作で亡くなるという結末。
 こういう映画をできるだけ多くの人に見てもらうべきなのだが、「問題作」となっても「大ヒット作」にならないのが今の現実だ。

 1992年「暴力団対策法」(暴対法; 暴力団関係者を取り締まる法律)の施行に続き、2011年47都道府県すべてで暴力団排除条例(暴排条例; 一般市民が暴力団関係者と関係を持たないようにする)が揃い、さらに暴排条例で、暴排条項が事業者の努力義務とされた為、各業界の規則や指針の多くに、下記の「元暴5年条項」(5年ルール)が採用されている。
 暴対法に該当すると判断された人物は、暴力団から脱退しても5年間は賃貸物件や銀行口座・クレジットカードなど社会で生活する上で必要な手続きが受けられない。偽装脱退がある為であるが、これでは脱退者の多くは社会に復帰することが容易ではない。
 2021年に公開された映画『ヤクザと家族THE FAMILY』では、暴対法で組が衰退し、組員として生きて行けず、辞めても5年ルールで生き辛いヤクザの悲哀を題材にしている。
 綾野剛さん扮する主人公が、堅気になろうとするが、5年ルールで居場所がなく今は堅気になっている元弟分に身を寄せる。しかし結局2人とも元ヤクザと明るみになり、元弟分は仕事も家族も失う。最後ふ頭に呼び出した元弟分が「お前さえ、戻って来なければ」と言いながら主人公を刺し、主人公は笑顔で元弟分を抱きしめた後、海の中に命を落とす。
 日本のヤクザが米国に進出するに伴い、2011年米国により、日本のヤクザ(暴力団)が、イタリアのマフィア、メキシコの麻薬密売・武装組織、旧ソ連等の犯罪組織と並んで国際犯罪組織と指定された。
 同じ反社組織であるが、日本のヤクザとマフィアが同じとは思わない。本ブログ2015年12月号NO.54(「みけつVSしけつ」)にて1995年の「八王子スーパー強盗殺人事件」に触れ、暴力団でも日本人は恨みもない女性に至近距離から頭を撃つようなことはしないだろう。複数犯であれば暴力団とか日本人が手引きし外国人が撃ったと見るべきだろう。」と記している。ともあれ、米国の上記指定が、いわくつきの暴排条例を後押しする。
 暴排条例は、憲法違反の恐れもあるから都道府県の条例にしたのか。世界の規範「罪を憎んで人を憎まず」から逸脱し、いわば、ヤクザは、「人でなく、熊だ」と言わんとす。
そしてヤクザの子も熊として排除されてしまうのか。

 旧ジャニーズの問題も同じだ。故ジャニー喜多川に加担したならともかく在籍だけで所属タレントが熊とされてしまうのか。

 「世間」の「ゆるし」はどうなったのか。世は不寛容すぎるのではないか。その口火を切ったような新浪剛史経済同友会代表幹事・サントリー社長に対して週刊新潮は「そう言う貴殿はどうなんだ!?」と言わんばかりに、「ハワイ10億円コンドミニアム私物化疑惑」や「女性トラブル」など追及していた。
 駆除賛成派と駆除反対派が対立し「熊との共存」が模索される中で、ヤクザの子は、熊以下なのか。熊みたいには怖くないから、ヤクザの子に「世間」は無関心なのか。

 熊は山に餌が少なくなり、また人間を怖い存在と思わなくなり、住宅地に出てくる。熊は裸だから住民はすぐ判る。

 ヤクザは入れ墨を服で隠し、サングラスをはずし、パンチパーマを止めれば、すくには分からない。今は表舞台からも消えている。そして、半グレや不良を表に立たせ、オレオレ詐欺を初めとする特殊詐欺を裏で操っているという。
 さらに最近は、掛か子や受け子を使わず、手っ取り早く老人宅を襲う。闇バイトで応募した若者らが90歳の老女を殺してしまう。70年以上も戦争がなかった平和な日本に傭兵みたいな若者が出現したことに私は驚愕してしまう(報道が正しければずさん極まりない犯行の栃木県那須町遺体損壊事件で遺体に火をつけ損壊させただけではなく殺害にも関与したのにその報酬で逃亡先にて豪遊できる二人の20歳実行犯にも)。
 兵士は、生死に関わる恐怖体験だけからではなく、相手を死傷させた良心の呵責からも、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が起きる。傭兵はPTSDを発症しないという。
 白井聡氏の『ニッポンの正体』(河出書房新書)には、(「必要悪」とまでは言っていないが)ひと昔ヤクザ組織は、社会に馴染めない者や差別されていた者の受け皿となっていたと書かれている。ヤクザの中では、差別がなく、その代わり掟があった。ヤクザにも矜持があり、高齢者や弱者を相手にしない。今は黒幕になって、反グレや不良に特殊詐欺などを仕切らせ、あの手この手で多くの高齢者が被害に遭う。反グレ等には矜持も掟もない。それに雇われた若者は傭兵みたいになるのか。
 警察庁は、表向きヤクザ組織、構成員が減ることに満足する。米国にも顔向けができる。しかし、それで日本の社会がほんとうに良くなったと言えるのか(我々庶民にとっては前より怖い社会になったと思えるが)。
 警視庁や他の県警は、どう思っているのか。鹿児島県警の前生活安全部長からの「県警本部長(警察庁キャリア官僚ポスト?)が不祥事を隠ぺいした」との発言は、警察官としての正義感からであろうが、日本で唯一の(時代錯誤的な)両班組織と言われる警察庁の警視庁・県警支配に対しての犯行(情報漏洩)ではなく、反抗(内部告発)と見るべきではないか。

 警察庁長官の事件性否定発言に反発し、木原誠二氏妻の元夫“怪死事件”は殺人事件と“捜査一課・伝説の取調官”が週刊文春に実名告発したのも同じだろう。
 薬物犯罪者や性犯罪者に対しては、「世間」の「偏見」だけではなく、きっと再犯するに違いないとの「不安」も根強い。受け入れる側の住民からその不安を取り除く必要がある。薬物犯罪においては再犯率が高いのを知りながら安易に裁判で執行猶予付きにすべきでない。
 性犯罪に対しては、米国では「メーガン法」で、性犯罪出所者の氏名や、顔写真などをネットで公表しているという。それでは熊扱いするのと同じ。日本においても子どもと接する職場で働く人に性犯罪歴がないかを確認し、子どもを性犯罪から守るための仕組み「日本版DBS」法案が成立した。

 これを一般性犯罪に拡大していくのではなく、韓国やカナダのように、裁判所が出所者に薬物投与を命令できる方がよい。再三に亘って性犯罪を繰り返す者が本人の意志ではどうにもならないのであれば、男性ホルモンを止めるしかないのでは。いずれにしても人権侵害は避けられないが。
 
 「世間」は、自らより下の者の悲哀には関心が低い。上の者には嫉妬心からか過敏に反応しがちだ。
 2019年4月北池袋で元通産省工業技術院元院長飯塚幸三被告人の過失運転により母子が死亡した。その1年前の2018年2月にも東京地検元特捜部長・現弁護士の石川達紘被告人が同じ過失運転により男性一人が亡くなっている。
 共に現行犯逮捕されなかったことから、「上級国民」への依怙贔屓だと騒ぎ出した。
 異説、奇論との誹りを甘受して、私見を述べてみる。

 「逮捕」され「拘留」されると、身体検査がある。その様子を森友事件で逮捕された籠池泰典氏が著書『国策不捜査「森友事件の全貌」』のプロローグで触られている。

 「身体検査では、“カンカン踊り”もさせられた。椅子に座る4人の看守の前でスッポンポンになって四つん這いのまま一周する。身体の具合をお尻の穴まで検査されるのである」
 身体検査のやり方に段階があるか否か知らないが、あるとすれば、安倍首相を相手に国家権力に抗う籠池氏の場合は最悪ではないか。“知の巨人”と呼ばれる佐藤優氏も著書で身体検査について触れているが、外務省職員の佐藤氏の場合は国策捜査における逮捕であり、検察とは概して不仲と言われる(先生と呼ばれる)看守は佐藤容疑者に対して同情的であったと思われるが、それでもヤクザに対するような身体検査をされたとしている。
 籠池氏も佐藤氏も、身体検査について自著に記すのは、よほど気丈なのだと思う。庶民でもその屈辱に耐えられない。社会的地位が高く、プライドが高い人はなおさらに。
 1982年(昭和57年)に発生した老舗百貨店・三越事件で会社を私物化した故岡田茂社長とともに愛人で三越内にて女帝と呼ばれていた故武久みちが逮捕された。武久は岡田が解任されてもなお強気の姿勢を崩さなかったが、この身体検査で鼻っ柱とともに心も折れたと当時の週刊誌が報じていた。
 一民間企業内部の問題を国策捜査化?した事件で逮捕され、公平な裁判が期待できないとして日本から逃亡した日産ゴーン元会長も同じ目に遭っているハズだが、検察批判をするもそれには一切触れていない。それだけ深刻で怨念の炎を燃やしているのだろう(ただ、逆襲に集中できる環境にはなさそうだが)。
 身体検査は、表向き「病気やケガがないかを調べる」為だが、自傷や脱獄の道具を隠し持っていないか調べる意味もあろう。さらに、私は、容疑者たちに国家権力の怖さを思い知らせる意味があるのだと考える。小市民が出来心で重大でない犯罪を行った場合、刑務所で囲い込み年間300万円程度の費用を掛けて更生させる必要はない。逮捕され、それが報道され社会的制裁を受け、この国家権力の怖さの象徴?である身体検査を受ければ、起訴されても執行猶予付きになるか、あるいは不起訴になっても、小市民なら罪をまた犯そうとは思わないだろう。
 飯塚被告人も石川被告人も、逮捕されなかったが、両被告人は国家権力側の人間で、逃亡の恐れもなく、国家権力の怖さを思い至らせる必要がないと私は考える。外務省の佐藤被告人も過失運転なら逮捕されなかったと思う。
 英国には貴族という上流国民がいる。日本にはいない。いるのは、国家権力側の人間。そして誰しもなることが出来る。「アメリカンドリーム」が夢は夢でも叶わぬ夢となってしまった超格差社会の米国と違い、首都圏の裕福な家の子弟の方が有利になってきたとしても、まだ地方の裕福でない家庭の子息でも可能。才能と努力があれば(国家公務員にはその国家試験を、検事・裁判官は司法試験を、クリアすれば)。
 問題とすべきは、有罪になるかどうか。飯塚被告人は、2021年9月禁錮5年(求刑禁錮7年)の実刑判決が一審で出された。石川被告人は、2023年5月最高裁にて禁錮3年、執行猶予5年が確定した。
 韓流ドラマでは財閥が検事に根回して起訴を免れる場面が多くみられるが、日本の検察及び裁判所は韓国と違ってまだ健全なのだ。なお、信頼が揺らいだ日本の検察は女性初の検事総長誕生を機に検察元幹部の犯罪容疑案件を表沙汰にし襟を正し国民からの信頼を取り戻そうとしている。
 そして、飯塚被告人は、高齢からして最高裁まで争い判決が確定する前に亡くなる可能性もある道を選ぶと思われたが、控訴せず老骨の身には厳しいムショ暮らしを選んだ。
 これは、真摯に罪と向き合う姿勢に加えて、国家権力側にいた者の矜持であり、プライドであり、「世間」に対する意地なのだろう(判決が出るまでの言動は非難されてしかるべしだが弁護士の弁護方針に沿った面もあるのでは)。これを見て、「世間」の上級国民談義は急速に鎮まって行った。

 我々庶民が上級・下級の超格差社会を心配すべきなのはAIが高度に進化した近未来の社会においてであろう。
 シンギュラリティ(技術的特異点)を超え、人間を超えたAIが暴走し人間との戦争状態を描いたのが、アーノルド・シュワルツェネッガーさん主演の1984年公開からの『ターミ―ネイター』シリーズ。昨秋公開の『ザ・クリエイター/創造者』は、今から40年後AIにより(人間による責任転嫁か)ロスで核爆発が起こりAI廃絶を目指す米国とAIとの共存を図るアジアとの戦争状態を描く。平和のシンボルのようなかわいい幼女の姿をしたAI型模造人間が兵器の稼働を阻止する超能力を発揮してアジア側を勝利に導く。
 私には、AIと人間との戦争が実際に起こりうるのかは分からないし、想像もしたくない。
 私が心配するのは、ほとんどの人間が必要でなくなる近未来の到来である。今はAIがまだ人間の仕事を一部代行しているにすぎないが。
 私は、若き銀行員時代、融資案件の可否を審査する審査役の補助をしていた。当時中小企業の決算書には3種類あると言われていた。一つは真実の姿を現した決算書。もう一つは、実態より悪く見せる税務署用。最後は実態よりよく見せる銀行用。その銀行用の決算書が粉飾でないか否か他の徴収書類とも照らし合わせ、矛盾点を探す仕事だ。それはAIが得意とする。AIに取って代わられるようになるが、その一方でその作業を通じて審査能力が向上する機会が失われる。すべての分野でAIに依存するようになると人間は考えることをしなくなり、劣化していく。AIに従属してしまうかも。
 AIがより進化すれば、WOWOWドラマ『盗まれた顔 ~ミアタリ捜査班~』(2019年7月)で知った、見当たり捜査ができる記憶力に優れた特殊な警察官も要らなくなる。500人程度の被疑者の顔写真や外見的特徴を記憶できる才能がなくてもAI機能搭載のメガネをかければ街中にいる指名手配犯を見つけることが新米警察官でもできるようになるだろう。
 さらにAIが進化すれば、ほとんどの仕事をAIに奪われ、AIがするには非効率という仕事だけが人間に与えられる。それにはどんな仕事があるのか。私にはイメージできない。
 誰もがやりたがらない便所掃除。米国の大手ビルメンテナンス会社では、「それは神の思し召しである」と言えば従業員は納得する。日本人はそれでは納得しない。なぜ他人の便所掃除をしなければならないのか、「奉仕精神」を理解させなければならない。感情を持たないAIロボットなら、そんな手間は要らない。
 AIを運用・管理する人間以外必要がなくなる世界は、富裕層が支配し、被支配民は互いに殺しあうゲームを強要される、2012年公開の『ハンガー・ゲーム』の世界になると言ってもあながち荒唐無稽ではないかもしれない(実際古代ローマでは観客用娯楽施設コロッセオにて奴隷や捕虜の剣闘士同士、剣闘士対野獣、の試合が行われていた)。
 AIがどれほど進化しようと、囲碁や将棋において人間の棋士同士の対戦が継続されることが望まれるように、AI進展の制度設計の中に予め「人間がする仕事(の確保)」が組み入れされていなければならない。孫、曾孫、玄孫らが、人間としての尊厳を見失ってしまうことがないように。
(次回216号は10/1アップ予定)