2020.9 臨時号 NO.139  ッホ VS ッホ
  日本人が好きな西洋画家は長らく(今年没後130年にあたる)ゴッホがトップの座に君臨していたが、今やフェルメールの方に人気が高いのではないか。
  一昨年秋上野の森美術館でフェルメール展が開催された。映画のように日だけではなく時間帯まで予約するようになっていた。当日朝一番の9時半~10時半で15分前に到着したが、もう100人以上が並んで開門を待っていた。同時期に開催されたムンク展にも行ったが、行列ほどではなかった(4枚ある『叫び』の内初来日のテンペラ・油彩の1910年版が目玉だが、ムンクが自画像を多数描いていることに驚いた)。
  フェルメール展でフェルメール作品10点が展示されたが、目玉の『牛乳を注ぐ女』より『赤い帽子の娘』の方が私の目を引いた。当時高価だったラピスラズリを原料としたフェルメール・ブルーが防腐剤や経年劣化で色褪せていた。大きな帽子のあざやかな赤色が強く印象に残った。その『赤い帽子の娘』は、23.2×18.1cmととくに小さく、キャンパスではなく支持体に板が使用されていることから、真筆に疑念を抱く美術家もいるのだが。
  『フェルメール最後の真実』(文春文庫)によれば、謎多き画家ヨハネス・フェルメールは1632年オランダ西部の商業都市デルフトに生まれ、1641年父親が宿屋『メーヘレン亭』を購入しそこに移り住む。1652年父親が亡くなりフェルメールは20歳で宿屋業と画商を受け継いだ。なお、宿屋のメーヘレンという名は、天才贋作画家ハン・ファン・メーヘレンと奇しくも同じ名前。メーヘレンがナチスのゲーリングにフェルメール作品を売ったとして戦後売国奴と糾弾されたが、贋作だと分かると一転オランダの英雄として崇められた。
  画家としてのフェルメールは43歳という若さで死んだこともあり、寡作でしかもチューリップ・バブルからオランダの黄金期が衰退していく頃であり、作品が世界に散逸して行ったことにより写楽と同様謎の多いことも人気の高さに繋がっているのかもしれない。

  一般的に科学者と画家と一見関係がなさそうだが、カメラがない時代は科学者は画家に頼らざるを得ない。1677年精子を発見したオランダのレーウェンフックは、初めて顕微鏡を使って微生物を観察した「微生物学の父」と呼ばれる。オランダ科学アカデミーは彼の功績を讃え、10年一度微生物の分野で最も顕著な発見をした科学者を顕彰するレーウェンフック・メダル制度を創設した。ちなみに、1895年には近代細菌学の開祖と呼ばれるパスツールや1950年にはストレプトマイシンを発見したワクスマンなどが受賞している。
  レーウェンフックは顕微鏡に映るものを精密にスケッチすることを画家に依頼せざるを得なかった。上手に描けないので画家に依頼したことが記録に残されている。
  その依頼された画家の一人があのフェルメールではないかとロマンあふれる仮説を大のフェルメールファンでもある青山学院大学福岡伸一教授は自著「フェルメール光の王国」(木楽舎)で遠慮がちに述べている。科学者の立場からではなく作家として。
  レーウェンフック(1632年~1723年)とフェルメール(1632年~1675年)は、同郷デルフトに同じ年に生まれ誕生日はわずかに1週間違い(10/24と10/31)。レーウェンフックの依頼によりフェルメールがスケッチした直接的な証拠はない。が、1675年フェルメールの死後レーウェンフックが遺産管財人になっており、極めて親しい間柄であったことからすれば、ありえない話と否定できない。

 『細菌と人類』(中公文庫)によれば、古代ローマ人の学者マルクス・テレティウス・ウアロが感染症の原因を「非常に小さな、目に見えない生物が人間の口や鼻から侵入して病気を引き起こす」と示唆していたという。紀元前の大昔から仮説があったが、それを立証する手段がなかった。レーウェンフックの顕微鏡は画期的ではあったが、その顕微鏡を他の科学者に譲ることはなかったので、細菌の解明には100年以上の年月を必要とした。
 ようやく顕微鏡を活用し細菌の解明が進んできた19世紀、人類の存続に脅威となっていたペスト、1830年からヨーロッパに現れたコレラ、フランス人の4、5人に1が罹患していたという梅毒(カツラが流行した要因の一つ)等の病原菌を解明・制圧することがまさに最優先課題であった。したがって、1901年に創設されたノーベル賞の生理学・医学賞部門の最初は人間に害を及ぼす細菌の解明に寄与した科学者が相次いで受賞(第1回ジフテリア菌のフォン・ベーリング、第2回マラリア菌のロナルド・ロス、第5回結核菌のロベルト・コッホ)している。
 なお、第1回生理学・医学賞の有力候補に「日本の細菌学の父」と崇められている北里柴三郎が挙げられていた。だが、受賞したのはジフテリア血清療法の共同研究者の上述フォン・ベーリングのみであった。人種差別の明白な証拠はないとされているが、高山正之氏は週刊新潮連載コラム『変見自在』2019.5.23号で「真の日本人」と題して、数々の功績を残す日本人北里を忌々しく思う白人による人種差別の見方を展開している。2024年からの新札千円札に北里が載るが、新札を見る度に日本の偉大な医学者に敬意を表しよう。

 伝染病をもたらす細菌の解明・制圧がほぼ終わった現在、新型コロナウイルス、エボラウイルス等ウイルスの解明・制圧に研究の目が向けられている。
 細菌の方は、最近、ヒトに害を与える細菌ではなく、体内にいる常在細菌等ヒトに有益な細菌の研究に軸足が置かれているようだ。
 阪大の研究チームは、腸内細菌を使って大腸がんを早期診断する手法を開発したとする。大腸がんの発症初期にだけ大腸で増殖する細菌を特定できたという。検便による便潜血検査では大腸がんの有無は分からない。併用することで大腸がんの早期発見が期待される。
 『細菌が人をつくる』(朝日出版社)によると、ヒトの体内の細胞が10兆個に対して、微生物は100兆個体内に存在する。DNAで見れば、ヒト遺伝子は約2万個もっているが、細菌遺伝子は200~2,000万個保持しており、その意味ではヒトは99%細菌と言えるとする。
 こうした体内にある常在細菌と肥満、関節症、自閉症等の病気との関係が研究により示唆されているという。そうなると、腸内細菌を変えるとどうなるかという試みも始まる。
 悪い細菌だけではなく良い腸内細菌も殺してしまう抗生物質を以ってしても余り効果がない病気の一つにクロストリジウム・ディフィシル腸炎という病気がある。本病気に罹ると日に数十回トイレに行く羽目になる。その治療に健康な人から腸内細菌を患者に移す「糞便移植」が実験的に行われ効果があるという。
 マウス実験によれば、糞便移植でマウスの肥満が治るという。細君ならぬ太君にそんな話をしたら「気持ちの悪い話をしないで!」と嫌がられたが。
 糞便移植で健康になった人と移植に協力した人とは、刎頸の友ならぬ“糞契の友”と称される日も近いのではないか。