八幡宮は、宇佐八幡宮が起源で、奈良時代以前から九州で信仰が広がり、中世以降は全国的に流行しました。主に武家の守護神とされ、従来は明神や天神を祀っていた神社が八幡に改称・合祀された事例も多いようです。ということで、一般に八幡宮の祭神は、武の神、出世開運の神として ’応神天皇’ です。

 

ところが、なぜか大阪市東住吉区にある枯木八幡宮は火雷神(ほのいかづちのかみ)で雷除けの神様が祭神となっています。これには何か特別な理由があるのでしょうか。

枯木八幡宮のはじまりは、旧枯木村のあたりは落雷が多く自然と「雷様」が祀られたものと推測します。地形的に見て、中世以前の大阪湾は現在よりも東に入り込んでいて、その中で陸地であった上町台地の南側を通り抜けた「雷雲」が生駒山系南端の柏原市国分から奈良盆地に入っていくときに、この辺りを通過することが多かったと思います。

「枯木八幡宮」の名は、「雷様」が祀られた後に、どこかの時点で命名あるいは改称されたのではないでしょうか。

                                      

枯木八幡宮は現在の規模から考えて、もともとは今の場所ではなく、新しい大和川で分断される前の枯木村の中心に近い場所に、もう少し大きな社があったのではないかと推測します 。しかし、その場所は大和川の付替え工事(1704)で川床となってしまい、本来なら工事に伴って幕府が移転させたはずのところが、そのままになってしまったのではないでしょうか。

 

移転できなかった理由は、大和川付替え工事が行われた当時、ちょうど枯木村は村内の争いにより北枯木村、南枯木村に分かれて(1661-1727)おり、枯木八幡宮の新しい移転先を決めることができなかったからだと思います。

 

現在、枯木八幡宮は大和川の北側の永安寺の近くにあります。

これは、大和川付替え工事後に枯木村が再統一され、その後、永安寺が宝暦年間(1751-1764)に開基される際に、その傍に小さく再興されたのではないでしょうか。

枯木村の人たちは、約半世紀の間、川床に沈んだままになっていた「雷様」がずーっと気になっていたと思います。ひょっとすると、「雷様」を再興するのが目的で永安寺が開基されたのかも知れません。

 

「枯木八幡宮」の名前も、再興する際に幕府のお役人に説明しやすいように武の神である「八幡宮」としたとも考えられます。そうだとすると、「枯木村の南北分断」と「大和川付替え工事」と「武家社会下での神様の再興」が絡み合って、火雷神(ほのいかづちのかみ)を祭神とする「枯木八幡宮」が成立したということになります。