枯木村の名前の由来を調べてみると、

行基火葬に必要な枯れ木を集めさせた場所だったため枯木村と名付けられた」というのが地域伝承として出てきます。

(大和川つけかえの史跡探訪ガイドブックⅡ 藤井寺・羽曳野・松原コース p24 大和川市民ネットワーク 2019.3編集発行)

しかし、これにはいくつか無理な点があります。

 

まず火葬についてですが、

行基(668-749)の時代、火葬は貴族の高貴な葬儀スタイルで、庶民は風葬が一般的でした。しかも火葬をするためには、貴重な薪と高度な技術が必要でした。火葬と関連付けたのは、行基が日本で最初に火葬された道昭(629-700)の弟子だったことによると思われます。疫病(天然痘)の蔓延防止のために火葬が行われたことも考えられますが、行基の時代に疫病対策として火葬が実施された記述が他に見当たりません。

 

つぎに、地域に行基の墓、過去に行基池があり、阿麻美許曽神社に行基が居住したという地域伝承がありますが、そもそも行基がここに長期居住したという江戸時代以前の記録がありません。

 

以上のことから、この説は地域で行基信仰が厚かったため、江戸時代に行基の関連した話として作られたものだと思われます。

 

行基信仰については、奈良時代、枯木村のあたりは豪族’矢田部’氏の荘園の一部でしたが、行基の一団が北側にあった小さな山(北山、南山)を削って湿地を埋める土地改良を行って農地を確保し、ため池(行基池)を整備して地域に貢献したことによるものと思われます。

矢田部氏は熱心な行基の信者になり、727年に行基の建立したとされる大野寺土塔(堺市)から出土した瓦には、矢田部氏の名前があります。

また、平安時代の936年からは石清水八幡宮の荘園のひとつとして矢田荘の記録があります。