こんにちは、絶學無憂です。

 

私の講座の受講生の方が、先日の仕事に関しての記事を読まれて、「あ、自分も平日と週末との間に極性を作ってしまってるかも?」って思われたそうです。

 

金曜日が節目で平日との二極化がでるということの記事を読んで
仕事に行くことがめんどくさいorやりたくない、苦行と感じているからではと思い
仕事をしなければならない」を観念として解放しました。

 

ブログで書いてるような感情解放の方法をお伝えしてあるので、ご自身でこれをテーマにやってみたそうです。

 

それにしても「仕事をしなければならない」ってある意味、本当のことじゃないですか。この本当のことを手放してしまったらどうなるんでしょうか?全然仕事しなくなっちゃう?めちゃくちゃになってしまう?

 

さて、どうなったか、その結果やいかに?どうなったと思いますか?

 

観念9でゴリゴリに強かったです。
般若心経を仕事の合間に繰り返し、最後に病腺の位置を特定できませんでしたが
個数はわかったのでレイキを送り、1日ががりで消えました。

驚きました!
通勤めんどくさいな。今日は眠い。週末早くこないかな。早く1日過ぎないかな。といったことが消えて
そこに仕事が当たり前にあるといった感じになりました。


仕事をするということが内容や周囲の人間によって「いやだな」という極性を刺激していたようなのですが
テストでは追っかける必要なしとなりました。

さらに、周りの煩わしさや平常心も一気に抜けた感じです。

「仕事をしなければならない」という単語の中に数多くの観念が含まれているのではないかと思いました。
ただ、この観念の意味合いが、言葉は同じでも個人個人で違っているのではないかと思います。

 

面白いですねー、これ。予想できましたか?

 

もちろん私はできませんでした(笑)。

 

 

実は結構多いのですが、「正しい」内容であっても、それを「正しい!!!」と力を込めて思い込んでしまうと、それが「正しい!!!」VS「悪い!!!」の極性を作ってしまい、その間で心が揺れてしまう、ということがしばしば見られます。

 

 

例としてよく上げるのは、道端への空き缶のポイ捨てです。

 

良い子の皆さんは、道端へ空き缶のポイ捨てしてはいけない、ということはちゃーんと理解してると思うのですが、これって社会的・道徳的に「正しい」ことですよね?

 

 

ところが、「正しい」ことっていうのは結構危ないんですよ。

 

これを正しいと信じていると、目の前にポイ捨てするような奴が出現したりするのです。

 

そのときに、「道端へ空き缶のポイ捨てしてはいけない」と強く信じていて、目の前でそれをやられると、どうなるか。

 

大抵の人は、そうなると、「こら、道端への空き缶をポイ捨てしたら駄目だ」と実際に相手に対して怒るか、まあそこまで度胸がない場合は、心のなかで「けしからんやつだな」と怒ることになります。

 

私の中学校の同級生のNくんは、友達と歩いて喋っている時に、その相手が飲んでいたジュースの缶をポイ捨てしたら、間髪入れずに殴った、というのでちょっと校内に名が轟いていましたが。

 

これ、心が揺れております。

 

 

じゃ、どうしたらええねん?

 

と思いますわな。

 

空き缶のポイ捨て見つけたら、拾ってゴミ箱に捨てたらいいんですよ。
 

そこに一切の怒りの必要性はないです。

 

現行犯の場合は、まあ様子を見て注意してもよいかもしれませんが、その際でも正義感を振り回す必要はないんですよ。「おーい、ここは捨てたらあかんで」と優しく教えてあげればいい。相手が聞くか聞かないかは分かりませんが。

 

何が違うかというと、「道端へ空き缶のポイ捨てしてはいけない」っていうのを「絶対のルールじゃムキー」みたいに力を込めて考えてしまわずに、手放してしまいます。「道端へ空き缶のポイ捨てバンザイ」って思う必要はないですよ。「道端へ空き缶のポイ捨てしてはいけない」っていうのを、淡々とただの言葉として受け入れている感じです。

 

と言っても意識的にそういう風に捉えようと努力するのはかえってややこしいので、たとえば般若心経の真言を唱えるなどして観念の手放しということをやったほうが早いです。