こんにちは、絶學無憂です。

 

私が般若心経の字句解説をしているところでもよく聞かれた意見なのですが、色即是空空即是色(しきそくぜくうくうそくぜしき)、の空(くう)とは、実体がないということだ、もっと超訳すれば、バーチャルリアリティのようなものだ、と説明しますと、こういう反応がしばしば返ってくるようです。

 

「そんな、すべてが幻でホンモノではない、というなら、もうバカバカしいから努力をやめてしまえ、とか、死が無い(般若心経では「不生不滅」や「無老死」という言葉で表現されています)というならばいっそもう自殺してしまえ、と思いませんか」

 

「この世がホンモノでないというなら、空(むな)しい気持ちになります」

 

これを私はとても興味深く聞いています。

 

というのは、私の場合は最初にこういう話を読んだのは、おそらくあくえりあんという人(守護霊とチャネリングし、瞑想によって悟り体験を得たという「手に職」系自営業の一般人)の書いたブログ(既に閉鎖しています)で、2012年の年末、ちょうどアセンション騒ぎの頃だったと思うのですが、むしろ「うぉー、スゲー、超すげー!!!ていうかチョーかっこいい」というような興奮反応であったと記憶していて、空しくなるとか全然思ったことがないからです。

 

般若心経自体はどう言っているかといえば、「照見五蘊皆空、度一切苦厄(しょうけんごうんかいくう、どいっさいくやく)」と書いてあり、五蘊(我々が体験できるリアリティすべてのことで、色・受・想・行・識の5つに分類される)がぜんぶ空(ヴァーチャル・リアリティ)だと見切ることで、一切の苦厄を彼岸へと渡し、乗り越えることができるのだ、と言っています。現実世界だとずっと思っていたものがヴァーチャル・リアリティだと見抜くことで、あらゆるストレスから解放される、と書いてあります。

 

ところが、上のような反応を示す方は、「現実世界だと思っていたものがヴァーチャル・リアリティだと聞かされることで、空しいというストレスを体験する」とおっしゃっているわけです。

 

ちなみにテーラワーダ仏教のアルポムッレ・スマナサーラ長老も、般若心経の伝えるような「空」は(彼の)仏教の教義に反しており、すべてが幻で、呪文さえ唱えればよいのだということで、修行していこうというやる気をそいでしまう、と痛烈に批判しています。正直、これには驚きましたが。

 

般若心経自体が語っていることと、これらの反応とはまったく逆方向であるというのがお分かりいただけるでしょうか。

 

ということは、般若心経に書かれていることはそもそも誤りである(なぜなら私は読んで空しくなったから)、と言う可能性と、般若心経の記述は正確であって、自分の「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」の理解の仕方が、般若心経が語っている内容とは大きくずれているという可能性とが考えられます。

 

スマナサーラ長老のような方もおられるので前者の可能性も否定はできませんが、私個人は後者の可能性を考えています。

 

般若心経そのものがはっきり言及していないことが、ここで重要なのではないかと思います。

 

すなわち、悟りとはなんぞや、ということです。

 

私が般若心経の解釈に触れたのは、まさにあくえりあん氏の悟り体験をもとにした、彼の守護霊による解釈であり、雲黒斎氏の悟り体験をもとにした、彼の守護霊による解釈でありました。

 

般若心経は、悟りとはなんぞやということと密接に関わっている、という文脈がそこにはあったわけです。

 

「この世がバーチャルリアリティだと聞いて空しい」という人は、この部分の視点が抜けているのではないでしょうか。

 

では、悟りとはなんぞや???

 

悟りとは、座禅や瞑想などを通じて特別な意識状態に至り、この世がバーチャルリアリティである、ということを、ただの知識や理論としてではなく、まさに直観的な悟りとして、知ってしまうこと、だと考えています。

 

これを体験した人にとっては、もはやこれは理論などではなくて、真実なのですね。

 

そして、一概になんとも言えない幸せな心地である、というようなことが体験として語られます。このときに、ヴァーチャル・リアリティの中にいる私も、ヴァーチャル・リアリティ全体も、全部同じひとつの「私」の意識から作られている、といういわゆるワンネスということも体験し、分離意識というのがそもそもヴァーチャルであったということをやはり知ってしまうようです。

 

このへんがごっそり抜けたまま、「あんたの人生は全部嘘っぱちだったよ」と言われて、空しい気持ちになっている、というのがだいたいこの反応の背後にある心理ではないでしょうか。

 

一つは悟りというものに対する無理解・無関心、もう一つは心のあり方でしょうね。

 

今ここだけがリアルな体験である(バーチャル世界をリアルに体験している、ということ)、という部分が抜けていると、過去であったり、未来であったりをやはり「実体」だと捉えてしまっているのでしょう。それがすべて否定されてやはり空しい。このへんは瞑想がやはり大切なのかなと思います。

 

私は今ここで生成されているバーチャルリアリティのその完璧な精度に圧倒され、感動を覚えるので、バーチャルリアリティ=空しい、というように感じることができませんのよ、オホホホ。