こんにちは、絶學無憂です。

 

普段の記事とはちょっと趣向が違いますが、Amazonに本のレビューを書いたのでそれを転載します。

 


 

スリリングな量子論の歴史を平易な文章で楽しむ。世界観が変わる発見の数々

この本は自分でも驚くほどの興奮をもって、一度開いたらほとんど止めることもできず、一気に(といっても数度に分けて読みましたが)読み切ってしまいました。文章が恐ろしく平易に書かれていて、その点にまず驚嘆しました。これは佐藤勝彦教授の類稀なる才能によるものなのかと思って舌を巻いていましたが、最後の方で実は彼は監修者に過ぎない、つまり誰か他の人間が書いたものにOKを出したに過ぎない(有名教授の名前で出したほうが本が売れる!)、ということが判明しました。PHPの編集者か、ほかのライターが執筆したもののようです。

驚いたというのは、このような一般人の視点にまで降り立った文章というのは、その道の専門家にとっては非常に書くのが難しいというのを、私自身も科学者の端くれとして知っているからです。科学者が日常使っている専門用語や数式をほとんど封じられてしまい、失語症のような状態で難しい概念を説明しなければいけません。誰が書いたにせよ、素人に理解できる文章を書くという点では本書は稀に見るほどの成功例だと思います。

なんとなく量子論のことが気になってはいたが、どうも全体像がつかめない、一体どんな話なんだろう、と疑問に思っているような人には最適の入門書でしょう。また、数式などは本当の最小限にしか出てこないものの、むしろそれによって興味を引くようなところもあり、これから物理を勉強しようという若者にもよいかもしれません。

以下は本のレビューというより、本書を読んでの個人的な(非常識な)考察です。

量子論については、以前からスピリチュアルやオカルトの方面で色んな人がしたり顔に「現代の量子力学でも同じように言われている」、というような言い方で紹介されているのを頻繁に耳にしたり読んだりしてきました。でもそういうあんたは物理を理解しているのかな?物理学者の仕事を無理やり自分に都合の良いように曲解して伝えているのでは?という疑念がずっと残っていました。

レビューワーの私は生物系科学者ですが、残念ながら物理学については素養がまったくないド素人。いっぽうで、スピリチュアルやオカルトといわれる分野の話をかなり広く受け入れてしまっている変人です。物理学とは縁のなさそう人たちが振り回す「量子力学」は本当に量子力学なのか?という問題意識が始まりでした。

「この世は仮想現実であることを示す証明式」というYouTubeの動画がありますが、これがあまりにも良く出来ていて、物理の素養なき私には正直うまい反論が思いつきませんでした。これは二重スリット実験における観測者効果(観測される前までは波動として振る舞っている電子や光子が、観測されたときには粒子として振る舞う)を、CGにおいて、プレーヤーがその場面を見るまでは細かい絵をいちいち描かずに「絵の可能性」としてほったらかしにしてあるが、プレーヤーが見ているときだけはその場面の絵を緻密に描くという計算量節約のトリックと類似していると指摘して、そもそもこの世が仮想現実世界なのではないかと問題提起しているものです。

 

 

正直な所、これをもうちょっと検証してみたいというのが量子論について読んでみたいと思った動機です。まじめな物理の徒からすればあまりにも不純かもしれません。

またこの動画の続編では、本書でも扱うEPRパラドックス(スピンしていない一つの粒子が壊れて2つになり、互いが1光年離れたときに片方だけを観察するとその瞬間にその片方のスピンの向きが確定されるが、同時に一光年離れた場所のもう片方が反対向きにスピンすることも確定され、「情報」が瞬時に一光年を超えて伝わってしまうというパラドックス。後に実験で実際にそうなっていることが確認。)さえも、仮想現実世界の中では時間や空間そのものが仮想なので容易に実現できてしまうじゃないかと指摘しています。

 

 

話が飛躍しますが、仏教の般若心経で有名な「空」の概念、「色即是空、空即是色」(実体のあるものは空であり、空とは実体のあるものだ)とか「不生不滅」(生まれたり死んだりということはない)、というものも、この世の現実だと思っているものすべては「空」=仮想現実世界だよ、と解釈すると意味が通ってしまいます。

このような考え方は広い意味ではシミュレーテッドリアリティ仮説という哲学になるようですが、量子論の超入門書たる本書は、この問題について、答えてくれるのでしょうか。

本書ではシミュレーテッドリアリティ仮説そのものは取り上げられていないので、その意味では直接答えは出ていないのですが、関連するような幾つかのことは確認できました。

本書によれば、他ならぬアインシュタインの言葉として『量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が「見た」からそこにあり、我々が見ていないときにはそこにはいないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていないときも、月は変わらずに同じ場所にあるはずだ』というのがあるそうです。見ていないときには月がそこにないというのは、まさしくプレーヤーが見ていないときには月は描画されない=そこにはいない、というCGの比喩と同じことだと思いました。

また量子論の生みの親であるボーアは、中国の伝統で陰陽を象徴する太極図を好んで使用していたことも紹介されていました。太極図というのも奥深いシンボリズムがあるようですが、単に陰と陽の二元性を白と黒で表すだけであればあのような形を取る必要はなかったわけで、陰と陽が統合された一元論的な世界をむしろ象徴しているという見方があります。本書の説明によるとボーアが太極図を好んだのも同じ一元論的な自然観からのようです。

 

 

ミクロの世界の振る舞いを説明する量子論とマクロの世界との関係を考えるための、「シュレーディンガーの猫」という有名な思考実験が本書でも紹介されています。50%の確立で発生する原子核崩壊によって箱の中の猫の生死が決定されるが、箱の外からは直接生死が確認できないという状況において、箱を開ける前の猫には「50%の生きている状態と50%の死んでいる状態とが重なり合っている」と量子論(コペンハーゲン解釈)では考える。

この奇妙な解釈を回避するために出てきたのが「多世界解釈」という文字通り無数の並行宇宙が瞬時に生成されるというアイデアだそうです。これによれば、箱の中の猫が死んでいる宇宙と生きている宇宙とが分岐しており、そのどちらに観察者がいるのかという確率が50%であると。

この考えは突飛すぎて現在でも主流ではないそうですが、この多世界解釈(プリンストン大学のエベレットという大学院生が1957年に唱えた学説)について、少なくとも本書の説明から受ける印象は、スピリチュアル分野で言われているような話と全く同じ印象でした。

とりわけ、エササニ星人バシャールがチャネリングを通して語る宇宙論(VOICEから多数が出ています)では、連続時間というのものは幻想で、映画のコマのような離散時間となっており、過去と未来のあらゆる可能性がひとつひとつの映画のコマとしてすべて現在に揃えられているが、そのうち波動の近いものが次から次へと選ばれて、我々は無数の並行宇宙の間を超高速でジャンプしているのだと言います。多世界解釈の一つと言えそうに思います。

この多世界解釈とか並行宇宙とか映画のコマ、というのも、仮想現実世界の喩えとはよく馴染むのです。現在のテクノロジーの仮想現実(わかりやすいのはコンピュータ・ゲーム)においても、ゲーム内の時間というのは、有って無いようなものです。実際はいろんなキャラクターやモノの動きの可能性がプログラムされていて(確率分布が広がっているイメージですが、シナリオの数だけ、あるいは動きの可能性の数だけゲーム世界が複数存在しているとも考えられる)、その時々に描画されているだけです。

ともかく、こういう興味で読み始めたので、特に興味をそそられたのは、コンピュータの生みの親であるフォン・ノイマンが、『波の収縮は人間の意識の中で起こる』と提唱していたという話です。

波の収縮というのは、存在の確率分布が空間に広がった状態から、場所が決まるということですが、コペンハーゲン解釈ではミクロの世界を観測をすることで波動性が消えて粒子を帯びると言います。この観測者というのが、明らかに重要な役割を果たしています。これが実験に用いられる測定装置(通常光を用いて粒子を検出する)による物理的な影響がミクロの世界では無視できず、この装置によって「波の収縮」が生じる、という意味で捉えるのか、測定装置を動かしたとしても、人間の意識が観測しない限り波は波のままであり、意識こそが「波の収縮」を起こす観測者なのだ、とするのか。ノイマンははっきりと後者と結論したそうですが、「現在ではほぼ否定され」「波の収縮は、もしそれが起こるならば、人間の意識などではなく実際の物理現象の過程で発生しているだろうと考えるのが現在の通説」なのだそうです。

スピリチュアル分野で喧伝されているのは「意識」が観測者であるという見方であり、これが成立すれば物心二元論のジレンマを破る突破口になります。現在ほぼ否定されているとはいえ、ノイマンほどの人物がその考えを支持していたというのはとても興味深いと思いました。

一方でノイマンは「シュレーディンガー方程式によると波の収縮は起きない」ということを示しており、コペンハーゲン解釈の肝である「波の収縮」をどう扱うかという窮余の一策として後に登場したのが上の多世界解釈でした。多世界解釈を採用すると、はじめからいろんなパターンの宇宙をたくさん用意しておけば良いので、「波の収縮」を仮定しなくてもよいそうです。

ノイマンの説が否定されるようになった詳しい経緯(観測者とは実験機械の意味であると考えてよい実験的な裏付けがあるのかどうか)、多世界解釈と意識との関係、あるいは多世界解釈における意識の役割といった点についてもっと詳しく知りたいと思いました。