こんにちは、絶學無憂です。
自他共に認める完璧主義者です。「でした」であって欲しいですが、どうかな?
本田晃一さんの名言!
完璧を目指すと自分を責めやすくなる。
すでに完璧だと気付いてから、より良いものを目指すと喜びになる。
そんな感じだっぺよ。
これ凄いですね。よくこんなことを短い言葉で表現できるもんです。
両者の違いはいったい何でしょうか?
「完璧を目指す」=「私は不完全だ」という欠乏感がスタート地点になっていますよね?
欠乏感をスタートとして、その欠乏感を満たすことをゴールとして活動すると何が起こるでしょうか???
こういうときは引き寄せの法則が働くことを思い出しましょう。
宇宙に響くのは、思いであって、感情ですから、今ここで感じている「欠乏感」が宇宙に届いて、類似した現実を引き寄せます。
つまり?
欠乏状態が延々と続くのです。
すでに完璧だと気付いてからスタートするならば、同じ完璧な結果をゴールとするとしても、先程の例とはスタート地点での前提が違います。だって最初から完璧なんだから、満たされちゃってますよね?満たされちゃっているから、悲壮感とか、シリアスな感じとか、頑張ってる感とか、そういう要素が全部不要になっちゃいます。そうなると、もう喜ぶしか無いでしょ....
未来のゴール設定は大事ですが、今のあり方のほうがさらに大事だっちゅうことですかね。
ここで話をやめてもよかったんですが、だいたい反論の予想がついたので、もうちょっと続けましょう。
「すでに完璧だと気づく」というけど、こんなに大変な状況で、こんなに問題がいっぱい発生していて、ひーひー言っているのに、そんなもん完璧だと気づくとか意味わからん、という方がたくさんおられるでしょう。それは単なる現実逃避なんじゃないの?問題を見て見ぬふりをしてより悲惨な事態を招くアレじゃないの?と。
たしかに「普通のものの見方」だとそうなってしまいます。
「普通のものの見方」というのは、直線的な世界観で、一方に善があり、もう一方に悪がある、という陰陽の二元論です。
ところが、陰陽の二元論の象徴として有名な太極図のデザインは、こうなっていませんよね?
こんな形になっています。
なんで丸いんだろう?
互いに入り組んでいるのはグラデーションを表現しているとしても、それだけなら丸い必要はありませんね?どうして直線表現を採用しなかったんでしょうか?
白と黒の点はそれぞれ「陰中陽あり、陽中陰あり」を表す、とされていますが、こやつらのせいで図がかなり複雑になっていますね。なんでこれが必要だったんでしょうか?
同じように古代から伝わる象徴として「ウロボロスの蛇」と呼ばれる図像があります。蛇または竜が自分の尾を噛んで丸くなっているのですが、.....なんでわざわざ彼は尻尾を噛んでいるんでしょうか(痛くないの)?
竜の種類が違っちゃってますが、普通はまっすぐでしょ?
ここで、悟り体験者であることを告白されている、賢者テラさんのお話に耳を傾けてください。なぜ、丸いのか???っていう謎が、目からウロコ的に解説されています。悟りの話まで持ち出してしまって話が大ごとになってしまいましたが。
どうでしょうか?腑に落ちましたか?
こういう、丸い視点、円の視点を持つ、あるいはそういう意識を持ってみると、現実世界のものの見え方が変わってきます。
極性が分離した直線的な世界から、両極が統合された円の世界へ。
この視点からものごとをみると、傍から見て大変だなーという状況でも、「あーこれで完璧に調和が取れているんだな」と、いうように受け止め方が変わってきます。これって目をつぶるのとも違うんですよ。
すると、スタート地点がもうぜんぜん違う場所になってしまうので、同じようなゴール設定でも引き寄せる現象が変わってくることでしょう。