デルス・ウザーラ (Дерсу Узала)
★★★★
1975年8月2日日本公開/1976年1月5日ソビエト連邦公開/
カラーシネスコ/141分/制作モスフィルム/配給日本ヘラルド映画/
製作:ニコライ・シゾフ、松江陽一原作:ウラジーミル・アルセーニエフ
脚本:黒澤明、ユーリー・ナギービン 監督:黒澤明 撮影:中井朝一、ユーリー・ガントマン、フョードル・ドブロヌラーボフ 音楽:イサーク・シュワルツ
出演:マクシーム・ムンズーク、ユーリー・ソローミン、マクシム・ムンズク、スベトラーナ・ダニエルチェンコ、オレンチエフ- アレクサンドル・ピャトコフ
前作「どですかでん」から4年9ヶ月後に公開された黒澤明監督作品。
当時、次の新作に向けて何度か挫折を繰り返し、苦難を乗り越えた黒澤は再び傑作を届けてくれた。
1923年に出版されたこのロシアの原作を黒澤は戦前に読んでおり、いつか映画化したいと考えていたそうだ。主なストーリーは、原作者の探検家アルセーニエフが、当時ロシアにとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方(樺太から約250k東方)の地図製作の命を政府から受け探検隊を率いて測量調査を開始する。
その途中で先住民ゴリド(現ロシア名:ナナイ)族の猟師デルス・ウザーラと偶然出会い、ガイドとして先導役を頼むこととなる。映画はシベリアの広大で厳しい自然の中での、猟師と隊長2人の交流と再会、別れを描いている。
この映画は、被写体とカメラとの距離感がほとんど変わらない。溝口の「西鶴一代女」に似た、必要以上に近づくことはせず、大自然の中の点景として人間を捉えて行く。
やがてそれが過酷な環境の中で生きる生物としての知恵や、他社との協力や連帯感が醸し出されてくる。
デルス・ウザーラは片言の単語でしか意思疎通をしない。しかしそれがまたよい。
「太陽、大事な人。月、大切な人。川、大事。風、大事・・・」
自然と対話するシベリアの原住民デルス。火、水、風の力を侮ってはいけない。
天然痘で妻子を失ったデルスには、「自然」が友であり悪であり救いでもある。
圧巻は湖に取り残された二人が、日没の迫る中、必死になって枯れ草を刈って寄せ集めるシーンだろう。
大草原に沈みゆく赤い夕陽。すぐに暖を取る枯れ草を集めないと凍死してしまう。
その時、突然に突風が吹き荒れ始める。
デルスはかき集めるのに疲れ果て倒れた隊長に、「草!、労働!」と叫び続ける。
「労働」しなければ「死」になるのをデルスは分かっている。
手に汗握るスペクタルシーンだった。
多分大型の電源車と扇風機を使っての風起こしの特機シーン。やり直しがきかないスペクタルを2,3台のカメラで同時撮影している。「羅生門」や「七人の侍」の土砂降りの雨を画面に焼きつけられた黒澤だからこそ実現できたシーンだと思う。
シベリアの奥地には虎が生息していて、デルスは「虎 (タイガー)は、森の精の使い」と信じている。なので決して争わない。デルスにとっては「森の精」が「神」なのだ。
最初の虎の登場シーンでは、動物園の虎を調達してきたソ連人スタッフに「目が死んでいる」
と、黒澤が言い、野生の虎を捕獲してきたのだが、その虎は夜行性で役に立たず、結局は動物園の虎を撮影に使用したとか・・・。ここのシーンのみ、人物のショットはスタジオで撮影されている。
そして第一部の終わり。
鉄路の上での二人の別れがやってくる。
文明に戻っていく隊長は、山に戻っていくデルスをずっと見送る。
ふと振り返り「隊長!」と叫ぶデルス。「デルス!」と叫び返す隊長。
映画だから再び会うだろうとは思うのだが、胸を締め付ける名シーンだった。
当初このデルス・ウザーラ役は三船敏郎を想定していたようだ。
しかし三船でなくてよかった。三船だったら興行成績も上がり、「おもしろい」映画なっていた事だろうが、「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」キャラの延長のアジア系猟師のイメージは、逆にその面白さが目立ち過ぎて、ロシアの厳しい環境の中、「森の精」を核にして生きる人間の逞しさや純朴さ、透明感までは表現出来なかったろうと思える。
映画の後半、二人は再び出会い、測量の旅に出る。
しかしデルスには老いがやってきて、ライフルの照準が定まらなくなる。
そして「虎 (タイガー)」に向かって発砲してしまうデルスは、その行為に愕然とする。
その日からデルスは怒りっぽくなり隊長との関係に溝が生まれて行く。
隊長は都会のハバロフスクに行こう。私の家に住めば良いと勧めるが、当然デルスは拒否。
そんな中、クリスマスの嵐吹き荒れる夜、虎 (タイガー)の影がテントに映る。驚いた隊長が外に出ると、デルスが傍に来て「虎 (タイガー)、殺しに来た、森の精の言いつけ、」とすがってくる。
最後には「街、行く、」とデルスは叫ぶのだった・・・。
ロシア極東の街、ハバロフスクで暮らし始めるデルス。
部屋の中ですることは、唯一の「自然」なものである、暖炉の「炎」を見つめることだけだ。
水売り商人が玄関に来れば「自然、水、売る、悪い人」と蔑み、薪を求めて公園の木を切れば警察のご厄介になり・・・。
文明社会では居場所がないのを理解し、デルスは家を出て再び森で暮らすため、隊長に別れを告げる。隊長は了解して餞別に最新型のライフルをデルスに与える。
そして次のカット、一枚の電報の文面が映し出される。
「あなたの名刺を持った老人が他殺死体で発見された。身元確認を求む」
デルスは強盗に最新式のライフルを奪われ殺されたようだ。
淡々と土を掘り返す埋葬現場に来る隊長。
身元確認が終わり、デルスは埋められ、書類にサインして関係者は去っていく。
隊長はデルスがいつも持っていたY字形の木の杖を取り、
墓標の代わりに立てかけて「終となる。」
あっけない終わり方だが、二人の出会いもあっけなかったのでこれで良いと思う。
変にデルス・ウザーラを英雄譚のように持ち上げない、感情移入させない、潔い終わり方なので、却ってデルスの印象が強まる感じだった。
映画公開から50年。ロシアの極東地域ではいまだ携帯の電波も通じない、GPSの位置情報も持たない装備で、森の中を歩き回っている「デルス・ウザーラ」の「子孫」たちが生きていると思う。
-----------------------------------------------------------
この映画の日本側スタッフとして参加したのは、黒澤の「我が青春に悔いなし」「素晴らしき日曜日」「野良犬」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録「蜘蛛巣城」」「天国と地獄」「赤ひげ」の9本の撮影を担当した中井朝一カメラマン。もともと東宝のニューフェースで黒澤組の助監督を経験、退社して制作会社を興し、「どですかでん」を製作した松江陽一プロデュサー。そして協力監督の河崎保と記録の野上照代、演出助手の箕島紀男らだった。
中井 朝一(なかい あさかず、明治34年(1901年)8月29日 - 昭和63年(1988年)2月28日)は、日本の撮影監督、撮影技師。
兵庫県出身。1927年(昭和2年)、帝国キネマに入社。のち新興キネマに移り、京都撮影所を経て大泉撮影所に移る。
1932年(昭和7年)、新興キネマで撮影技師に昇進。
1941年(昭和16年)、東宝と契約。
前後、黒澤明監督作品の撮影を多く担当し、東宝のベテラン名カメラマンとして多数の作品の撮影監督を務めた。
人物・エピソード
黒澤明監督の「黒澤組」では、黒澤監督の屋敷でスタッフキャスト全員が集まってよく乱痴気騒ぎの宴会が開かれた。この宴会で決まって出るのが中井の裸踊りだった。中井は普段は非常におとなしいが、酒が入って言って時間がたつと、いきなり「アラエッサッサー」と叫んで全裸になる奇癖があった。それぞれ同行した夫人たちは面白がるが、中井夫人だけは黙って下を向いていたという。
黒澤監督は助監督を怒鳴るのが癖で、一度『七人の侍』で堀川弘通の受け答えが気に入らず、「その口のきき方は何だ、ぶん殴るぞ!」と詰め寄ったことがあった。あわてて土屋嘉男が黒澤にタックルしてこれを止めたのだが、このような土屋曰く「松の廊下」は、中井キャメラマンの時にもあったという。土屋は「あの人のいい中井さんでも、時にうっかり反抗を見せることもあった。しかし、こんなことは内輪であるからどうと言うことではない。それをよそ者が見て、逸話にするだけのことである」と語っている。
『蜘蛛巣城』から『天国と地獄』の間の黒澤作品に一切参加していないのは、『蜘蛛巣城』での夜間撮影をめぐって黒澤と大喧嘩になり、黒澤組を離れていたためである。
---------------------------------------------------------
前々作「赤ひげ」公開以降の流れを、Wikiと「世界の黒澤」(https://www.tv-asahi.co.jp/ss/197/special/top.html) より転載する。
10年前の『赤ひげ』(1965年)公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた。
1966年7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立、黒澤プロダクションは東京都港区の東京プリンスホテル4階に事務所を構える。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立っていた。
孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた。
1966年6月、黒澤はアメリカのエンバシー・ピクチャーズと共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロルと意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた。例えば、黒澤は70ミリフィルムのカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズのモノクロ映画で作ろうと考えていた。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった。
その後、1967年4月、真珠湾攻撃を題材とする戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された。
総製作費は現在の価値にして900億円。2年の準備期間を経て、一隻25億円もする空母や戦艦が発注され、1968年12月、東映京都撮影所でクランクイン。意気揚々と作品作りにのめり込んでいく黒澤だったが、ここでも屈辱を味わうことになった。東京世田谷の東宝撮影所で育ち、いわゆる「黒澤組」と呼ばれるスタッフの中で完全主義を貫いてきた黒澤だつたがこの作品では、撮影・録音・美術デザイナー・チーフ助監督以外は全て東映京都のスタッフ。当然撮影方法も違っていた。
大澤豊 助監督
「やっぱり京都っていうのは、古い活動屋さんがたくさんいましたからね、巨匠といわれる人たちとやってきてますから、『黒澤明がなんだ』『何が天皇だ』と、なんかそういう反発みたいなものはあったって雰囲気がありましたね。『あんまりいばりくさってると、危ない目にあいますよ』っていう。だから例えば、照明部さんが、2階からパッと落として、『あ、すいまへん!』みたいなこともね。もちろん実際に当たるようなことはありませんけれど、黒澤さんは非常に神経質になって、『おれはこれから全部ヘルメットを被る』なんてね。トイレ行くのでも、自分の部屋に行くのでも全部ガードマンつけろって言って、両脇にガードマンを従えて移動してましたね。」
更に、完全主義を貫き通す黒澤を激怒させたこんなエピソードも。
連合艦隊司令長官・山本五十六役には軍人の威厳を醸し出せる、との理由で、実際の海軍経験者を起用。役者経験の無いこの素人に対しても、撮影現場では最大級の敬意が払われていたが、京都の撮影所スタッフは、中身を読む芝居が無い「見舞い状」の中に時代劇で使った「果たし状」を入れて封筒にふくらみをつけた。
それを開けて見た黒澤は、「何だこれは!俺はこういう神経の持ち主と映画は作れない!助監督全員殴れ!こいつら全員に正気入れなおせ!」と怒鳴り、挙句の果てに撮影所を出て行ってしまった。
黒澤組では絶対に考えられない出来事…そこはまさにアウエーだった。そんな黒澤を更に悩ませたのが、またしてもハリウッドだった。撮影開始から3週間たったある日、突如FOX側から一方的に黒澤の監督解任が発表された。その理由は黒澤監督がノイローゼであるため。勿論、当の黒澤はノイローゼでも何でもなく、その根本的な理由はただただ撮影方法の違いだけだった。
黒澤の撮影方法はリハーサルやスタンバイに重点を置き、納得いくまでそれを繰り返す。そのため、カメラを回さないで終わることもあった。全てが整ったところで数台のカメラで一気に撮り上げる。しかし、ハリウッドでは、毎日どれくらい撮影したかという効率が何よりも重視される。
黒澤久雄さん
「すごく縛られるんだよね。一日に何時間だけ回せとか、フィルムをどれだけ回せとか、いちいち報告を出さなきゃいけない。自分のリズムを作りにくいというか…。極端な事いうと、お酒はこれぐらいしか飲んじゃいけないとか、それぐらい色んなことがあるわけよ、契約書の中に。それが彼にとっては合わなかったんでしょうね。」
結局、黒澤の撮影方法をハリウッド側は理解する事ができず、「ノイローゼ」という偽りの理由で黒澤を降板させた。当時の心境を黒澤はこう漏らしている。
「3ヵ月間も熱中していた作品を取り上げられたら、映画監督は殺されたも同然だ。」
しかしこの相次いだ黒澤の監督降板を、マスコミは必要以上に攻め立てました。黒澤がハリウッド進出を夢半ばで絶たれたその間に、日本映画界も衰退の一途をたどる。高度経済成長の余波で、人々の娯楽は、映画からテレビなど、あらゆるものへ多様化していった。
1969年6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治など黒澤を応援する人たちが集まった。
その翌月には木下惠介、市川崑、小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した。
結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、「トラトラトラ」降板から1年。1970年 黒澤24作目となる「どですかでん」が公開。貧しくても、誇り高く生きる人々を描いたこの作品は、黒澤自身初のカラー作品であり、絵画を得意とする黒澤によって独特の色彩効果を全面に出し様々な人間像を絶妙に捕らえた作品となったが、公開されるや賛否両論で、中には「黒澤の時代は終わった・・・」などの声も囁かれた。
自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた。
その後、日本映画界から黒澤への監督依頼は来ず、「僕から映画を引いたらゼロだ」と口癖のように言うほど、どん底の状態に・・・。
世界の黒澤は、生活のために、絶対にやらないと言っていたテレビドラマの脚本書きをすることもあった。撮りたい映画が撮れない、資金が集まらない、日本映画の衰退を自分の責任のように書きたてられる――黒澤は果てしなく苦悩していった。
黒澤和子さん
「日本の映画界が下火の時代が長かったじゃないですが。それは大きい映画会社とか配給会社とかスタッフとか俳優さんだとか、いろんな問題がいっぱいあったんだけども、その代表みたいにすごく責められちゃうところがあるわけですよね。ものすごくナイーブな人だったし、謙虚な人だったし、プラス映画がすごく大事だったし、スタッフたちがそういうことで食べられなかったり、バラバラになっちゃったり…映画の色んな職人さんの伝統が途切れてしまうとか悲しいことがたくさんあったのね。」
黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年8月には名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった。
そんな中、1971年12月22日、衝撃的なニュースが舞い込んだ。
「映画監督 黒澤明 自殺未遂」。
黒澤は自宅浴室で、カミソリを使用して自殺を図った。幸い傷も浅く、一命を取り留めたが、大好きな映画が撮れない苦悩と先の見えない精神的な不安は、黒澤をそこまで追い詰めていた。
自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに、黒澤がソ連で映画を作るという話が持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた。
1973年3月14日、黒澤はソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年4月から約1年間にわたり撮影をした。シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めたが、作品は第48回アカデミー賞でソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤明の復活を印象付ける事となった。
-----------------------------------------------
2024年8月22日
【モスクワ共同】黒沢明監督が、ロシア極東の少数民族猟師と探検隊長の交流を描いた、日ソ合作映画「デルス・ウザーラ」(1975年)で主役となった2人の銅像が、ロシア極東ウラジオストクの空港前に設置された。