小早川家の秋

★★★

1961年10月29日公開/カラースタンダード/103分/宝塚映画製作・東宝配給/

製作 藤本真澄・金子正且・寺本忠弘 脚本 野田高梧・小津安二郎

監督    小津安二郎 撮影 中井朝一 音楽 黛敏郎 美術 下河原友雄

出演-中村雁治郎・新珠三千代・小林桂樹・原節子・浪花千栄子・司葉子・加東大介・山茶花究・藤木悠・森繁久彌・杉村春子・団令子・遠藤辰雄・東郷晴子・宝田明・笠智衆・望月優子・白川由美・島津雅彦

 

前作「秋日和」からちょうど一年後に公開された小津監督作。

東宝プロデューサー・藤本真澄の長年のオファー要望でやっと実現した、東宝傘下の宝塚映画が製作した小津作品。

 

小津は常連の松竹スタッフを一人も連れずに参加。ただ美術監督だけは「宗方姉妹」(1950年)、「浮草」(1959年)で美術を担当した、大映の下河原友雄を連れてきている。

 

この作品も「浮草」に続いて、中村鴈治郎の名演芝居が素晴らしい。

店員の藤木悠の尾行を、スタコラと巻いてしまう所や、

その後のあんみつ屋のシーン。孫とかくれんぼをしながら着替えるシーン。

新珠三千代との丁々発止のセリフのやり取りの可笑しさなど、

忘れがたいシーンがいくつもある。

昔の妾・浪花千栄子の祇園宅に通う、

隠居した老人を見事に生き生きと演じて見せる。

 

ただ、一応の主演である原節子や司葉子は精彩に欠ける。というかこの二人を見ていると前作「秋日和」を見ている既視感におそわれる。

 

母娘だった関係が、叔母と従姉に置き換えただけで、二人の交わす会話も新鮮味がない。というか原節子も司葉子も、物語の主役である鴈治郎との絡みがほとんど無く進行していく。別の物語のような印象だ。

 

それは二人の男関係、森繁久彌と宝田明も、東宝スター総出演の賑やかしの配役でしかなく、森繁・宝田の出演シーンがなくても内容的にはほとんど影響ない。

 

Wikiによると、アドリブを得意とする森繁や山茶花究は、小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法にが悲鳴を上げた。

森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。

ある夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)」と伝えたと言われる。

 

浪花千栄子も、「彼岸花」のお喋りオバサンほどの個性はなく、

ほとんど似た設定である「浮草」での、

鴈治郎と杉村春子との情感流れるシーンと比べると見劣りしてしまう。

小津は撮影現場では新珠三千代がたいそう気に入ったらしいが、映画内でも新珠三千代が一番洗練されていて、同時期の「社長シリーズ」の新珠とは別人のように、緩急自在な奥深い演技を見せてくれる。

 

やはりこの映画の失敗はラストシークエンスだろう。

鴈治郎が死んだあと、突然に黒いカラスが群れる川のカットが現れる。端正な画面と原色の鮮やかさが特徴的な小津カラー映画に、突如として真っ黒のカラスの登場。

隠居老人の老いらくの恋心を基調としていた流れに、突然の暗い死生観が現れる。

 

川で野菜を洗う笠智衆と望月優子が、焼き場の煙突の煙を見上げてセリフを言う。

「また誰が死によった。

死んでも死んでも順繰り順繰り、後から後から産まれて来よるわい」

それまでの映画の登場人物とは一切関係ない、赤の他人を突然に出しての唐突なセリフ。このセリフを小津は観客にどうしても提示したかったのだろう。そしてこの映画のラストに必要と考えたのだろう。

 

重苦しい黛敏郎の音楽が流れる中で、地蔵の上の、黒い2羽のカラスのカット。

こんなカットを小津映画で見たくはなかった。

 

この映画の公開3ヶ月後、長年一緒に暮らした小津の母が、86歳で死去する。

小津は、「小早川家の秋」で墓やらカラス、焼き場の煙突など

不吉なものを撮ってバチが当たった、と自虐的に嘆いたそうだ。    

 

以下Wikiより転載

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『小早川家の秋』は、小津安二郎監督による1961年公開の日本映画である。

概要
兵庫県宝塚市に存在した宝塚映画制作所(現・宝塚映像)の創立10周年記念作品として、巨匠・小津安二郎を招聘した作品である。 松竹を拠点にしてきた小津が、東宝(製作は宝塚映画)で監督した唯一の作品で、大阪や京都など純粋に関西を舞台にしている点でも貴重な一本である。なお、表題の姓「小早川」は「こばやかわ」ではなく「こはやがわ」と読む。脚本は、野田高梧と小津との共同執筆によるオリジナルであり、前作『秋日和』(1960年)完成直後より蓼科高原の野田の山荘で執筆された。

小津が東宝で映画を製作することとなったのは、表向きは『秋日和』で、当時、東宝専属だった原節子と司葉子が松竹に出演したことの見返りとなっているが、実際は小津の大ファンだった藤本真澄プロデューサーをはじめとする東宝首脳陣の小津招聘作戦が功を奏したものだったという。

 

『早春』(1956年)に東宝専属の池部良が出演した際には、当時の森岩雄製作本部長が池部に「何としても小津さんの気に入られて、東宝に来てもらうように頼みなさい」という命令を下すほどの熱の入れようだった。

 

池部良・著『心残りは…』によると森の発言は、

「実は、小津先生には、再三再四、東宝で撮って戴きたいとお願いしてあるのですが、色よいお返事を戴いておりません。あなた(池部良)にお声がかかりましたが、東宝としては無理算段して松竹へあなたをお貸しするのですから、あなたは、先生に気に入られて、東宝へ来て下さるように、それとなくお話ししておいて下さい。あなたの使命は重大です」。

 

小津は既に松竹以外の他社では、新東宝で『宗方姉妹』(1950年)を、大映で『浮草』(1959年)を撮っていたが、五社協定が厳しかった時代に、小津のような松竹を代表する巨匠が東宝で映画を撮ることは稀有なことであった。

藤本には、東宝の専属俳優達を強烈な個性を持つ小津映画に出演させて、今までとは異なるイメージを引き出したいという狙いもあった。そのため、本作品は新珠三千代、宝田明、小林桂樹、団令子、森繁久彌、白川由美、藤木悠ら東宝スター総出演となっている。また、小津も熟練の職人芸で毛色の異なる俳優たちを的確に演出している点も、この作品の見どころの一つとなっている。

内容的にも結婚を巡るドラマのスケールを広げて、京都・伏見の造り酒屋の大家族を巡るホームドラマ大作となったが、小津の視点はあくまでも主人公である小早川万兵衛(中村鴈治郎)の老いらくの恋とその死に向けられ、この頃小津が自らを「道化」と称していた心境とも重なるものとなった。

万兵衛の葬儀を描いたラストの葬送シーンは11分45秒にわたるこの映画のクライマックスだが、小津は火葬場の煙突から上る煙や墓石を強調し、それらの場面を黛敏郎作曲による『葬送シンフォニー』で盛り上げ、なおかつ笠智衆と望月優子の夫婦による宗教的な会話を挟むことによって、小津作品の中でも最も強烈に死生観を感じさせるものとなっている。なお、本作は原節子とのコンビ最終作ともなった。

この作品で初めて小津映画に出演した俳優のうち、小津の好みにかなったのは、小林桂樹、藤木悠、団令子などであった。特に小津が夢中になったのは新珠三千代であり、撮影の合間には「松竹で作る次回作に主演してくれ」と小津が新珠に懇願する場面もあった。反対に、小津にとって演出しづらかったのは、森繁久弥や山茶花究などアドリブ芝居を得意とする俳優だったという。特に森繁は、小津をへこましてやろうという闘争心剥き出しだったために、小津もその演出に苦労した。森繁が「小津に競輪なんか撮れっこない」と言ったエピソードなども知られている。小津は扱いづらい俳優と仕事をする際には、根気強く説得するのではなく、やや突き放して冷淡に接したといわれているが、当時性格俳優として人気のあった山茶花究などは、この小津の態度に戸惑い、失意さえ味わったという。

小津は松竹からスタッフを1人も連れて行かずにこの作品を撮った。東宝は小津を招くということで、当時の東宝を代表する一流のスタッフを揃えた。撮影の中井朝一は黒澤明作品の常連であり、照明の石井長四郎は成瀬巳喜男作品を支えてきたスタッフである。そのため、小津の他の松竹作品とは違った独特の緊張感が漂っている。ただし、編集に関しては、自分の生理にあったフィルムの繋ぎにこだわるあまり1コマを半分に切ることまでする小津の要求に応えることは困難を極め、最終的には松竹から小津の長年のパートナーである浜村義康が急遽呼ばれることとなった。

また、赤い色にこだわる小津は、この作品でも松竹作品と同じくアグファ社のフィルムを使用している。赤い色へのこだわりは、撮影のほか、衣装や小道具にも及び、赤い小道具を撮影する際には、スタッフ全員でスタジオ内を掃除し、異物が写り込まないように細心の注意を払った。

ラストシーンで、葬送の行列が川にかかった橋を渡る際に、カットによって川の流れの向きが逆になっている。このミスを指摘したのは試写を見た藤本真澄だったが、実際にはミスとはほとんど気づかないくらいの些細なものであるという。