赤線地帯

★★★★

1956年(昭31)3月18日公開/モノクロスタンダード/86分/大映/

製作    永田雅一 脚本    成澤昌茂、一部「州崎の女」芝木好子より

監督    溝口健二 撮影    宮川一夫 音楽    黛敏郎 美術 水谷 浩

出演-京マチ子・若尾文子・木暮実千代・三益愛子・進藤英太郎・沢村貞子・菅原謙二・浦辺粂子・田中春男・見明凡太朗・十朱久雄・加東大介・多々良純・川上康子

 

前作「新・平家物語」から半年後に公開された、溝口健二監督の遺作。この映画の5ヶ月後、1956年8月24日に溝口は骨髄性白血病で死去している。享年58歳。

 

京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子と、それぞれ一枚看板の主役級を集めた贅沢な配役となっている。

 

 

脇もワンシーンのみの加東大介はじめ、十朱久雄、田中春男、多々良純とベテランが揃っていて楽しめる。

 

戦前の「浪速悲歌」や「祇園の姉妹」、戦後の「夜の女たち」「西鶴一代女」などで一貫して描いてきた、貧しさ故に春を売る底辺の女たちを描いている。さらに当時国会で議論されていた「売春防止法」を絡めた社会性リアリズムの側面も併せ持った力作となっている。

 

三宮の良いところのお嬢さんが親に反発して売春婦となった京マチ子。馴染客を結婚すると騙して金を貢がせる若尾文子。病気持ちの亭主を支えて生きる木暮実千代。街頭で客を誘う姿を一人息子に見られ、最後は精神錯乱になる三益愛子。

 

それぞれの人生を、ほぼ対等に描いていく構成が素晴らしい。ただ個人的に黛敏郎の音楽が、生理的に受け付けなかった。

 

ラストは、店のお手伝いの15,6歳の幼女が、初めて化粧をして店前に出て、男を誘うカットで終わる。撮ったのは名匠、宮川一夫。

溝口健二の、最後の映画の、最後のカットとして、永遠に記憶されるだろうラスト・カットだった。

 

 

入院してからわずか3ヶ月後の死去。

溝口自身も、まさかこのまま病院で死ぬことになるとは思ってもいなかったろう。

無声映画の時代から数えて92本の映画を残して、58歳で死んだ溝口健二。合掌。

 

以下Wikiより転載

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『赤線地帯』は1956年公開の溝口健二監督作品。溝口作品としては1954年『噂の女』以来の現代劇で、公開後に溝口が死去したため遺作となった。

概要
大映移籍頃から長く不遇をかこった溝口は、1952年に『西鶴一代女』がヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、海外での名声を得ると共に国内での評価を取り戻した。以後1953年『雨月物語』が同映画祭銀獅子賞(この年は金獅子賞が出なかったので、最高位の受賞作に当たる)、1954年『山椒大夫』にて再び銀獅子賞を受賞し、世界中から注目される巨匠としての地位を築いた。

そんな中で製作されたこの作品は、売春防止法制定前後(同法公布は1956年5月24日)の社会情勢をリアルタイムに取り入れた現代劇で、溝口作品の真骨頂とも言うべき女性主体の作品となった。特殊飲食店「夢の里」を舞台に娼婦たちの生き方を生々しく描いた悲喜劇で、明確な主役は据えておらず大勢の女優が軽快なテンポで次々に登場する豪華な女性群像劇となった。

分けても当時「母もの」で知られた三益愛子が、大年増の娼婦を演じた事は話題になった。他にも京マチ子、若尾文子、木暮実千代ら他の溝口作品にも出演したキャストの、他作品とは異なるバイタリティ溢れる狂騒的な演技も評価が高かった。スタッフにも、冒頭で独特のテーマを聴かせる音楽の黛敏郎、溝口が最も信頼していたキャメラの宮川一夫、同じく美術の水谷浩ら「溝口組」の名スタッフが結集している(ただし脚本は溝口の傑作を多く手掛けた依田義賢ではない)。この完成度の高さに時代性が手伝い、興行的にも成功を収めた。

なお本編の一部に芝木好子『洲崎の女』を導入しているが、物語の舞台は吉原となっている。

溝口はこの作品の公開後、『西鶴一代女』に続く西鶴ものを企画し、依田義賢による『大阪物語』の脚本を完成させた。1956年5月には撮影準備が整うが溝口は体調を崩して入院し、8月24日に死亡。結果的にこの『赤線地帯』が遺作となった。『大阪物語』は翌1957年に、吉村公三郎監督で映画化された。

 

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死去
1956年、溝口は最後の監督作となる『赤線地帯』を撮影したが、その前後から好きな酒が美味しくないと言い出したり、歯茎から出血したりするなど、体調に異変が見られた。この作品の完成後、溝口は次回作として『大阪物語』の製作準備を始めたが、この時も夕方になると微熱が出たり、足が紫色に変色したりするなどしたため、5月に製作準備を中止して京都府立医科大学附属病院の特別病棟に入院した。

 

溝口は骨髄性白血病と診断されたが、病名は本人には知らされず、永田などの大映首脳部のみに知らされた。溝口は毎日のように輸血をしたが、白血病は不治の病だったため、そのまま回復に向かうことはなく、8月24日午前1時55分に58歳で死去した。

 

亡くなる前日には「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」と絶筆を残していた。溝口作品で美術監督を務めた水谷浩は、溝口の死去当日にデスマスクを制作した。

8月30日、青山斎場で大映による社葬が営まれた。戒名は常光院殿映徳日健居士。墓は東京の池上本門寺の子院である大坊本行寺に建てられた。京都の満願寺にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた。

溝口の訃報はちょうど開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』の上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられた。

 

撮影に至らなかった『大阪物語』は、1957年に吉村公三郎監督によって映画化された。同年8月には産経新聞社の主宰で、日本映画の最優秀作品の監督やスタッフに贈られる「溝口賞」が創設されたが、授与はわずか3回で終了した。