「楊貴妃」

★★

1955年5月3日公開/カラースタンダード/98分/大映東京・邵氏父子/

製作:永田雅一、ランラン・ショウ 脚本:陶秦、川口松太郎、依田義賢、成沢昌茂

監督:溝口健二 撮影:杉山公平 音楽:早坂文雄

出演-京マチ子・森雅之・山村聡・南田洋子・小沢栄太郎・進藤英太郎・山形勲・石黒達也・杉村春子・見明凡太朗・霧立のぼる・村田知英子・阿井美千子

 

前作「近松物語」から半年後に公開された溝口の新作。

リアリスト溝口からすれば、中国の歴史劇を、日本人が日本語で演じることへの根本的な懐疑があっただろうと思われる。また自身初のカラー作品でもあるが、画面から「色」へのこだわりは感じられず、作品自体も弛緩した仕上がりとなっている。

 

物語は唐代の楊貴妃・京マチ子の恋と悲しい末路を描いたもので、歴史物というよりも悲恋ものと言って良い。皇帝を演じた森雅之と京マチ子といえば「羅生門」や「雨月物語」でのコンビ。ともに海外で賞を取った作品だけに再び賞を狙ったものと思える。

 

ただストーリーがいかにも類型的であり今一つといった印象。それでも終盤の反乱に向かって緊張を高めていき、ラストの、あの世での二人の再会も安直ではあるが、溝口作品としては救いがあって後見は悪くはない。

 

以下、小説家・有島一郎の長男である森雅之のWikiより転載

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森 雅之(もり まさゆき、1911年1月13日 - 1973年10月7日)は、日本の俳優。

北海道札幌郡上白石村(現在の札幌市白石区)生まれ、東京都出身。身長165cm。父は小説家の有島武郎。本名︰有島 行光(ありしま ゆきみつ)。

略歴
生い立ち
1911年、当時札幌で教員を務めていた有島武郎と、陸軍大将・男爵神尾光臣の娘でもある母安子のもとに、長男として生まれる。他に弟が2人いた。

3歳まで札幌で過ごしたが、1914年に母が結核を発病し名医の治療を受けるため、旧旗本屋敷だった東京麹町の有島邸に家族揃って転居。しかし1916年には母を病気で亡くし、1923年には父・有島を心中で失い、弟2人と共に叔父の有島生馬らの下で育てられる。

1931年に旧制成城高等学校を卒業、1931年に京都帝国大学文学部哲学科美学美術史専攻に入学するが中退。中退については、「翌年胸部のカリエスに罹ったことでその後4年間の闘病生活を送ることが理由」とするもの、または「役者になりたいという気持ちが強くなり学業より芝居を選んだため」とするものがある。

演劇の道へ
1925年に築地小劇場を見学して感銘を受けたことで成城高等学校時代から舞台俳優を志す。1930年に同劇団の『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラ出演する。

1931年、慶応仏文の金杉惇郎、フランス帰りの長岡輝子を中心に都会派のモダンな学生劇団「テアトル・コメディ」が結成され、参加。第1回公演から芸名の'森 雅之を名乗り始め、『芝居は誂向き』などの演技で将来を嘱望されるが、この頃胸部のカリエスに罹り4年間ほど闘病生活を送った。

病気治癒後の1937年、岸田国士、岩田豊雄らの文学座の結成に加わり、本格的に役者で身を立てる決心をする。コメディや恋愛劇の洗練された演技で注目を浴び、1940年に杉村春子、三津田健と文学座の常任委員に就く。1943年には杉村と夫婦役を演じた『田園』がロングランとなり、翌1944年には北里柴三郎を演じた『怒濤』の老け役で絶賛された。戦前の舞台演劇の世界で確固とした地位を築いたが、同年に文学座を退座。

戦後
戦後は1945年に戦後初の新劇『桜の園』に出演した後、東京芸術劇場(東芸)の結成参加を経て、1947年に劇団民藝の前身の「民衆芸術劇場」(第一次民藝)の結成に加わる。滝沢修、宇野重吉らと戦後の新劇界を牽引するが、1949年、思想的な内紛に嫌気がさして「民衆芸術劇場」を退団。民芸退団後は新派に約10年所属。また、その後の劇団民藝(第二次民藝)にはフリーとして公演に参加。1950年代以降はフリーの立場で文学座などの新劇の舞台に立ち、また、新劇の枠をこえて劇団新派や東宝現代劇などの芝居にも積極的に出演した。

映画出演での黄金期
当初、映画出演に消極的だったが、1942年、31歳のとき、文学座が提携出演した東宝作品『母の地図』で映画デビューを果たす。1947年、松竹映画『安城家の舞踏会』の没落華族の長男役で注目される。これがきっかけとなって本格的に映画界に進出し、この頃から森にとっての映画黄金期に突入する。

1950年代を中心に溝口健二監督作『雨月物語』や黒澤明監督作『羅生門』、成瀬巳喜男監督作『浮雲』などの作品で知的でニヒルな二枚目を演じ、演技派のトップスターとして活躍した。また、出演映画が米国アカデミー賞と世界3大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)のすべてで受賞しており、4冠を達成している。
1956年、芸術祭奨励賞受賞作『勝利者』でテレビに初出演し、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げた。

死去
1973年10月7日、慈恵医大付属病院で直腸癌のため死去、62歳。墓所は多磨霊園。1972年の映画『剣と花』が遺作映画に、1973年の東宝現代劇の新春特別公演『女橋』の父親役が最後の舞台出演、同年9月8日放送のNHKドラマ『コチャバンバ行き』がテレビでの遺作となった。両作出演時には、既に病魔に冒されており、病身を押しての仕事であった。

受賞など
舞台出身の名優として、黒澤明監督と溝口健二監督の国際映画祭受賞作品(『羅生門』、『雨月物語』)で主役を務め、また、成瀬巳喜男監督の『浮雲』での演技によって第1回のキネマ旬報主演男優賞を受賞した。

1995年、キネマ旬報が行なった「日本映画オールタイム・ベストテン」の「男優部門」で第1位に選出されている。2000年に発表された「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の3位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第5位。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優2位となっている。

人物
知的で彫りの深い端整な顔立ちと憂いを含み翳りのある風貌の独特の存在感で人気を博し、日本映画黄金期を代表する名優の一人に数えられている。映画では、準主演として主演俳優・女優の引き立て役にまわることもあったが、彼の存在がその映画作品の評価をあげることとなった。映画、舞台などで共演した人気女優は数知れず、多くの作品でヒロインの相手役などを演じたことから、「女優を最も輝かせる男優」とも称されている。

作家を父に持ったためなのか、硬派な文学作品の主役級の役がまわってくることが多く、1954年には父の同名小説を映画化した『或る女』でも主役級の役を演じている。ちなみに、幸田文の同名の自伝小説を映画化した『おとうと』では、文の父で作家の幸田露伴を演じている。

一部の業界人からは、「家柄の良さがにじみ出る森の演技は、まるでフランス人俳優のようだ」とも称された。また、家柄の良さとインテリジェンスから、上品かつ迫力ある役作りのできる俳優だった。特に20代から老け役を得意とし、舞台『怒濤』や映画『悪い奴ほどよく眠る』等で高い評価を得ている。

『虎の尾を踏む男達』、『續姿三四郎』、『羅生門』、『白痴』、『悪い奴ほどよく眠る』など、黒澤明の映画作品に欠かせない演技派二枚目俳優でもあった。三船敏郎と共演する場合は対照的な役柄を演じることが多く、また、野性味豊かな演技の「動の三船敏郎」に対し、堅実で理知的な演技の「静の森雅之」と呼ばれることもあった。

『羅生門』では、身なりは高貴だが複雑なエゴを内に秘めた武士・金沢武弘を見事に演じ、「従来の質実剛健なサムライのイメージを塗り替えた」と世界で絶賛された。『浮雲』では女性をたぶらかす不実な男という悪役を演じ、一部では知性と官能を内包した独特のダンディズムを感じさせ、「森の真骨頂」とも評された。

考え方など
親の七光りを嫌がり芸名の“森雅之”を名乗り始めたが、デビューからそれほど経っていない頃に意図せずマスコミによって「有島武郎の息子」であることが報じられてしまった。

森は、「間を大事にする演技」を第一に自分に課していたという。生涯、役者としての芸を、ジャンルを問わず貪欲に追い求めた。

次男によると「父は、どこかに所属するのが嫌いな質でいつもフリーな立場でいました。戦後の一時期、新劇界に左翼的な運動が吹き荒れた時も父は『芝居と政治は無関係』と言って映画界に移った」とのこと。また、「若手の役者たちには、『芝居という虚構の世界で、観る人にそれを感じさせずにリアルなものと思わせることが役者冥利なんだ』と説いていた」という。

私生活
両親と養父
5歳の頃に、27歳だった母を結核で亡くした森は、幼かったこともありその後周りには「母の記憶はほとんどない」と語っていた。森が成城中学校に進学した2ヶ月後、父である有島が人妻との不倫の末心中を遂げた(心中について詳しくは有島武郎を参照)。その後1948年に受けた(雑誌「美貌」)のインタビューで、「大活字でデカデカ扱われた父の新聞記事を見つけてまるで電流にふれたようにハッとしました。その時の胸の衝動は一生、かき消すことは出来ないでしょう」と語っている。

有島記念館の主任学芸員は、「森さんは自殺した父親に対して愛憎相半ばする気持ちを抱いていたと思います。しかし、戦後、森さんがスターになった時の演技からは、海外経験豊富なインテリの有島一族の血脈と、出生地の北海道の大陸的雰囲気を感じます」と評している。

有島の死後、森を含めた3兄弟は有島生馬に引き取られたことから、森は生涯、生馬を敬愛した。芸能界入りした後も、森は毎年の正月の挨拶を欠かさず、生馬のもとを訪れては有島の思い出話などに花を咲かせたという。 

最初の結婚と不倫
1938年3月に文学座第一回試演『みごとな女』で、主演女優・堀越節子の求婚者を演じたことで交際を始める。翌1939年に堀越と結婚し男児を儲けたが、1944年の秋頃から文学座の女優・梅香ふみ子と不倫関係となる。

その結果1945年に森と梅香の間に後に女優となる中島葵が生まれたが、すでに二人の関係が終わっていたこともあり認知をせず、そのまま梅香との関係を断ち別れた。その後、葵が16歳になった時に面会し認知をしたが、その条件は親子としての一切の交際を拒絶するという厳しいもので、二度と会うことは無かった。葵は、父である森に対する追慕や父の思いを文章に残している。

2度目の結婚生活
1946年6月に森は、帝劇の舞台『真夏の夜の夢』で共演した日劇ダンシングチームのダンサーの吉田順江(としえ)と不倫関係となった。同年末、すでに破綻していた堀越との結婚生活を精算して離婚し、その直後に順江と再婚し、2年後順江との間に森にとって次男となる男児を儲けた。しかしこの結婚生活でも森は相変わらず頻繁に浮気を繰り返し、浮気が発覚するたびに名優の森は迫真の演技で妻に全力で謝罪し許しを乞うのが常であった。

このように森はプレイボーイであったが、家庭に居るときは常に妻子思いの心優しい良き夫として振る舞っており、そんな森を心から愛していた順江は夫が浮気をしても最終的に許しており、二人は生涯添い遂げた。後年、森の次男は「父の女性関係は華やかでしたが、不思議と家庭が崩壊することはなかった。これは、父を俳優として尊敬していた母が包容力を持って接していたことが大きかったのだと思います」と述懐している。ちなみに次男によると「父はいつもジャズのメロディを口笛で吹きながら帰宅していたので、玄関ドアを開けるまでもなく父の帰宅がすぐにわかった」とのこと。

エピソード
1973年6月のある日、20代だった森の次男は、その日初めて父にドラマ撮影があるNHKのスタジオまで車で送るよう言われた。到着後、次男はドラマの撮影現場でがんの痛みに耐えて本番をこなす父の姿を目撃したが、その翌日森は直腸癌により緊急入院した。後年、当時について次男は「父は自分の仕事への姿勢を息子の私に見せておきたかったのだと思います」と回想している。

青春ドラマの名脇役で知られる森川正太は、著書『売れない役者 あなたの知らない芸能界サバイバル』の中で、駆け出しの若手の頃の話を回想している。そこには「あるドラマの撮影中、スタジオの前で何時間も待たされた僕はイライラが募り、『俺を何時間待たせるんだ!!』と周りに当たりちらしていたところ、同じように出番を待っていた年配の役者に『役者は待つのも仕事の内だから』とやさしく諭されたことがある」と記している。続けて「スタジオ入りすると、普段は現場に顔を出さないようなテレビ局の重役や監督、現場の撮影スタッフから、その年配の役者が最上級の扱いを受けている様子を不思議に思った。帰宅後、母親に事の顛末を話してキャストの名前が記載されたシナリオを見せたところ、年配の役者が森雅之であることを知った母親は、不世出の名優の前でさらした息子の悪態に絶句してしまった」という。

その他
番町小学校4年生の頃に野球チームに入り、早稲田大学グラウンドで行われた少年野球大会に出場しセカンドを守った。
中学時代は硬式テニス部に入部し、その後主将となって東京都中学リーグ戦で優勝するなどテニスの腕はセミプロ級だった。
趣味は、テニス以外に釣りとカメラがあり、釣りは30代の時に一時体調を崩してしばらくの間療養生活を送ったことがきっかけで始めた。

酒好きで、家では主に晩酌にビールを飲んだ後、ブランデーを1杯程度飲んでいた。また、1948年に大田区久が原に自宅を新築し応接室にはバーを設置したが、同時期から森の仕事が多忙になったことから結局このバーで飲むことはほとんどなかったという。
無類の動物好きでその中でも特に猫を愛していた。
1955年に、森と同じ明治44年生まれである小説家の田村泰次郎や芸術家の岡本太郎らと「四四の会」を結成したとされる。
作曲家・指揮者の山本直純は親戚(伯母の孫)で、生前は互いの芸を高め合えるとして度々会食していた。