西鶴一代女

★★★★

1952年(昭27)4月17日公開/モノクロスタンダード/148分/新東宝

製作:児井英生 原作:井原西鶴『好色一代女』より 脚本:依田義賢

監督:溝口健二 撮影:平野好美 音楽:斎藤一郎 美術:水谷浩

出演-田中絹代・三船敏郎・菅井一郎・進藤英太郎・沢村貞子・山根寿子・大泉滉・柳永二郎・宇野重吉・清水将夫・加東大介

 

前作「武蔵野夫人」から7ヶ月振りの溝口新作。

戦後、女性解放三部作やよろめき夫人物を量産してきた溝口だが、やっと戦前の傑作「残菊物語」や「元禄忠臣蔵」前後篇の流れをくむ、長回し撮影のテクニックを用いて冷徹に人間を注視する視点の傑作が生まれた。ヴェネツィア国際映画祭の国際賞を受賞している。

 

江戸の世に生きた、波乱万丈の女の一生を田中絹代が熱演している。これはやはり溝口と長年コンビを組んできた田中だからこそ演じられた役だろう。

 

三船敏郎、近衛敏明、宇野重吉、進藤英太郎、柳永二郎と、次々に恋に落ちたり側室として娘を産んだり幸せな世帯を持ったり・・・。幸薄いその人生には救いはないのだろうか・・・。

 

依田義賢の脚本が素晴らしい。多分構成の段階で、溝口は長回しを多用する事を想定して脚本を書かせている。一つのシーンで、状況が二転三転していく、その面白さは比類なきものだ。ラストの化け猫の演出は、長回しだからこそ見ているものに焼き付けられる。

 

また斎藤一郎の音楽も素晴らしい。当時の三味線や琴の音色を自然に劇伴として導入している。この手法も「残菊物語」と同じだ。ただラストのみ、巡礼を続ける田中に対しての鎮魂歌のコーラスを当てている。

 

2年前に公開された黒澤の「羅生門」が、ヴェネツィア国際映画祭で受賞した事が、溝口を奮起せたらしい。良い意味で相乗効果を産んだ事になる。

 

以下Wikiより転載

----------------------------------------------

『西鶴一代女』は、1952年(昭和27年)4月17日公開の日本映画である。児井プロダクション・新東宝製作、東宝配給。監督は溝口健二、主演は田中絹代。モノクロ、スタンダード、148分。

原作は井原西鶴の浮世草子『好色一代女』で、依田義賢が脚色した。封建制度下の江戸時代を舞台に、男に弄ばれ悲劇的流転の人生を歩んだ女性・お春の一生を描き、溝口が得意とするワンシーン・ワンカットの長回しや流麗なカメラワークが随所で効果をあげた[2]。海外では特に作品を高く評価しており、後のフランスヌーヴェルヴァーグの映画作家にも大きな影響を与え、ヨーロッパ映画界では長回しの流行を生じさせることとなった[3]。ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞している。

当時、溝口と主演の田中はそれぞれスランプにあっていたが、溝口は『羅生門』(黒澤明監督)のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞に刺激を受けて、本作を並々ならぬ熱意を込めて作った結果、作品は海外で賞を受賞し、田中も一世一代の名演を披露。この作品で両者はスランプを脱することに成功した。

当時の溝口は「武蔵野夫人」の失敗もあり、金ばかり使って当たらない過去の巨匠との評判で、この作品も脚本は出来ていたが、どこも引き受けなかった。それまで興行重視だったプロデューサー、児井英生は話を持って来たえくらん社の松本常保との縁もあり、大監督と四つに組んでみたいと決心をし、児井プロの自主製作とし、新東宝に3800万円で買い取らせることにした(縁のある田中絹代を使うことは最初から想定していた)。児井は全く経費を惜しむことをせず、制作費は7000万円となり、児井が製作した生涯唯一の赤字映画となり、児井プロは約4千万円の借金を抱えたという。

撮影所にどこにも空きがなく、当時菊人形展会場として使われていた大阪府枚方市の遊園地ひらかたパークアトラクションホールで主に撮影され、スタッフ及びキャストは当時営業していたひらかた温泉旅館、鍵屋旅館(枚方市有形文化財)など京阪本線枚方公園駅前にて営業していた旅館に泊まり込み分宿して撮影を終えた。元々軍需工事で防音装置がなく、付近を走る京阪電車の警笛を避ける為に夜間での撮影が中心となったものの不意の警笛をマイクが拾ってしまいNGになる事もあったという。

スタッフを溝口組で固められてはやりにくい児井は撮影、照明に新東宝組を、チーフ助監督には新東宝で『雪夫人絵図』を撮影中に溝口と喧嘩別れしたことのある内川清一郎を当てた。溝口は例によりセットや小道具などのちょっとしたことで機嫌を損ね、たびたび撮影を長時間中断させた。ある日内川が強く諫言したところ、溝口も滅多なことでは休まなくなった。しかし、その後、苦労して警察の撮影許可を取ったロケセットの作り直しを繰り返す溝口に激怒し、内川は助監督を辞める。児井は溝口に主導権を渡さないために、敢えて溝口に頭を下げて取りなすことはしなかったという。

その頃、ヴェニスやカンヌの映画祭はパーティーを開くなど派手な運動をしなければ入賞できないと言われており、児井は出品には消極的であったが、林文三郎から強く勧められ、児井と新東宝の佐生社長が40万円ずつポケットマネーを出して翻訳とスーパーインポーズの費用に充て送るだけ送ったという。受賞は全く予期しなかったことで、授賞式に行く金もなく、賞状とライオン像は送ってもらった。

受賞
1952年:ヴェネツィア国際映画祭 国際賞
第26回キネマ旬報ベスト・テン 第9位
第7回毎日映画コンクール 音楽賞(斎藤一郎)