白痴

★★★★

1951年5月23日公開/モノクロスタンダード/166分/松竹大船

企画:本木荘二郎 製作:小出孝 原作:フョードル・ドストエフスキー

脚本:久板栄二郎、黒澤明 監督:黒澤明 撮影:生方敏夫

美術:松山崇 音楽:早坂文雄 編集:杉原よ志

出演-森雅之・原節子・三船敏郎・久我美子・東山千栄子・千秋実・志村喬・千石規子・柳永二郎・左卜全・三好栄子

 

前作「羅生門」より9ヶ月後に公開された黒澤作品。

「羅生門」は大映京都撮影所だったが、今回は「醜聞」を撮った松竹大船撮影所作品となっている。東宝争議で古巣の東宝を離れて作品を発表を続けた黒澤は、各撮影時所のスタッフに大きな影響を残していった。「羅生門」ではチーフ助監督の加藤泰と反目したり、この作品ではやはり助監督の野村芳太郎の仕事を高く買ったりしたようだ。

 

ロシアのドストエフスキー原作で、2時間45分という長尺のこの作品、正直言って見るまでは気が重かった。最初のうちは字幕スーパーでの説明が頻繁に出て、なかなか物語に乗れなかったが、東山千栄子の出番あたりから滅法面白くなった。

 

東山というと、この作品の4ヶ月後に公開された小津の「麦秋」や、2年後の「東京物語」での母親役が有名だが、この作品での東山は、饒舌で意地悪な母親を演じていて、思わず笑ってしまった。

 

この映画は黒澤が編集した最初の版から99分ものカットをしたものが一般公開となった訳だが、その短縮のために説明的な字幕を入れたり、また左右のワイプでのシーン転換が多用されている。場合によっては同じシーンなのに、ワイプ処理で時間を飛ばしている所もあった。しかし逆にこの処理がテンポを滑らかにして、長丁場でもダレずに見続けられた。黒澤が編集者の杉原よ志を褒めていたのも、この結果だろう。

 

主人公である、戦争犯罪人として銃殺される寸前に釈放され、それが元で精神を病んでしまった、白痴役の森雅之も素晴らしい。眉毛が薄く両手を常に持ち上げているその半病人の姿は、痛々しくもあり崇高さも漂う。

 

原節子は、小津映画では見られない、少女の頃からの妾役で、60万円で千秋実に売られていく設定。また森との三角関係になる勝ち気な久我美子も素晴らしい。この映画は、役者たちの演技ののアンサンブルが一つの見ものだろう。

 

三船敏郎はいつものキャラの延長ではあるが、森とお守りを交換して友情らしきものを結ぶシーンとか.鉄橋の上での走り去る蒸気機関車の噴煙と共に去っていく、その後ろ姿とか印象に残る。戦後5年の札幌市内のロケーションも、「酔いどれ天使」「野良犬」と同じように隠し撮りで生々しく記録されている。

 

クライマックスの森を挟んでの、原と久我の対決は息が詰まるほどだ。当時31歳の原と、20歳の久我。久我は原と堂々と渡り合っているのがまた凄い。この時の原節子の鬼面のような表情が忘れがたい。やはり原節子は大女優だったと納得させられる。

 

ラストが今ひとつ分かりにくいのが残念。原を殺した三船は投獄されたただろうとはわかるが、森雅之がどうなったか、セリフでは語られているが、やはり森自身の姿を見たかった。大ラスの久我のセリフ、「実は私達が白痴だったのよ」を活かすためだろうとは思えるが・・・。

 

以下Wikiより転載

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『白痴』は、1951年に公開された日本映画である。監督は黒澤明。原作は19世紀のロシアを舞台としたドストエフスキーの小説 『白痴』で、本作では昭和20年代の札幌に舞台を置き換えている。当初の上映時間は265分だったが、製作した松竹の興行上の都合で166分にまで短縮された。

製作
脚本は黒澤明と久板栄二郎の共同執筆で、熱海の旅館で1ヶ月近くかけて執筆作業を行った。製作は松竹大船撮影所で行われ、助監督に中平康や野村芳太郎などが付いた。野村は最終的に黒澤からシーンの可否の判断まで求められるようになり、黒澤は「大船に過ぎたるものふたつ。(編集の)杉原よ志に野村芳太郎」と語ったという。1950年12月初旬に撮影準備を開始し、翌1951年2月12日に北海道のロケーションで撮影開始した。3月10日過ぎまで札幌市でロケを行い、3月20日頃から松竹大船撮影所でセット撮影を行ったあと、5月中旬に撮影終了した。

公開
黒澤が完成させた当初は、上映時間が4時間25分もあり、前後編2部作になる予定だった。しかし、松竹副社長の城戸四郎は試写を見たあとに撮影所長を叱りつけ、興行的に不利だとして短縮を命じた。プロデューサーの小出孝は、これを黒澤に伝えることができず、自分の責任でカットすることも検討したというが、結局野村が黒澤に伝えた。黒澤は渋々3時間2分に再編集したが、さらに短縮するよう要求された。激怒した黒澤は、山本嘉次郎宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えたという。この3時間2分版は、1951年5月23日から東京劇場で3日間だけ上映された。しかし、同年6月1日に一般公開されたのは、松竹が再々編集した2時間46分版で、オリジナル版は現存していないとされている。

その他
中島公園の氷上カーニバルをはじめ、現在は失われた昭和20年代の札幌市の文化・風俗が記録されている貴重な映像資料でもある。
黒澤はある時期に、本作が「おれの中でいちばん好きだよ」と淀川長治に告げている