羅生門

★★★★★

1950年(昭25)8月25日公開/モノクロスタンダード/88分/大映京都

企画:本木荘二郎 製作:箕浦甚吾 原作:芥川龍之介

脚本:黒澤明、橋本忍 監督:黒澤明 撮影:宮川一夫

美術:松山崇 音楽:早坂文雄 照明:岡本健一

出演-三船敏郎・京マチ子・森雅之・志村喬・千秋実・上田吉二郎・加東大介

 

前作「醜聞」から4ヶ月後に公開された黒澤監督作。

撮影所は松竹大船から大映京都へと変わり、毎回違う撮影所でのスタッフと共に、堂々と力作を撮り上げてしまう黒澤明は超人的だ。

 

日本映画として初のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した作品。

黒澤も会社サイドも賞狙いの意図は全く無く、戦後5年、荒んだ社会の歪みをテーマに黒澤は映画を作ってきたが、この映画もその一片。ただその手法が革新的で、また宮川一夫の映像もまた強烈、海外映画会社の日本支店の所長が作品を見て気に入り、自費で字幕版を製作、映画祭へプリントを送っての受賞となった。

 

羅生門のセット一杯で、登場人物は主要六人のみ。人によって話しが食い違うという、非常に演劇的なモチーフだが、森の中のシーンはコントラストの強いハイキーな写実的な画面で、リアルに迫ってくる。この相反するドラマの拮抗が、この映画の魅力に思える。

 

以下Wikiより転載

------------------------------------------------------------------

『羅生門』は、大映による1950年(昭和25年)の日本の映画である。監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演。 芥川龍之介の短編小説『藪の中』を原作とし、タイトルや設定などは同じく芥川の短編小説『羅生門』が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。

同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。

第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめることになった。また、本作の受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となった。

脚本
伊丹万作唯一の弟子としてシナリオの指導を受けた橋本忍は、伊丹に「君は原作ものはやらないのかね」と言われたのがきっかけで、文学作品を手がけようと考え、あまり映画化されていなかった芥川龍之介に目を付けた。橋本はサラリーマン生活をしながら芥川の小説を読み、彼の短編小説『藪の中』を元にした『雌雄』というシナリオを3日で完成させた。1946年に伊丹が亡くなり、翌年に一周忌法要に参加した橋本は、その席で伊丹夫人から佐伯清を紹介され、『雌雄』を含めたシナリオを佐伯に預けた。その後東京出張の度に佐伯宅を訪問し、佐伯が黒澤明と親しいことを知ると、自分のシナリオを黒澤に読んでもらうように頼んだ。佐伯は預かっていた橋本の『雌雄』を含むシナリオを黒澤に渡した。

当時は東宝を離れ、映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』を撮った大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、佐伯から貰った『雌雄』を思い出した。『雌雄』は京の郊外で武士が殺害される事件をめぐり、関係者3人が検非違使で証言するが、みな食い違ってその真相が杳としてわからないという内容だった。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足した。タイトルも『雌雄』から『羅生門物語』を経て、『羅生門』に改められた。

製作準備
大映の首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また黒澤は商業性に乏しいこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。

同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケーション・ハンティング、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8人のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉体女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。黒澤は当初、この役に原節子を念頭に置いていたが節子の義兄、熊谷久虎が節子には向かないと反対して実現しなかった。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。

羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からず寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口18間(約33メートル)、奥行き12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃しているという設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ、1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ」と愚痴をこぼした。

助監督
撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと松華楼の黒澤を訪ねた[18]。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めたため、次のように説明した。

人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。
— 黒澤明『蝦蟇の油』
 

この説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。その代わり加藤は本作の予告編を作ることになった。その予告編には撮影現場のスナップや、特別に撮った猫の目のアップや、うごめく蛇のショットなど、本作とは関係のないテーマが挿入された。予告編に対する黒澤の反応について、田中は「最初にその予告編を見た時、面白いじゃないの、というようなことを言いましたよ。もっともそれは、黒澤さんの皮肉だったと取れないこともないですが…」と語っている。

撮影
撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケーション撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。撮影は大映専属の宮川一夫が担当し、カメラは宮川愛用のミッチェルNC型撮影機、レンズは画面の隅々までシャープな画像が得られるアストロ社製の32ミリ、40ミリ、50ミリ、75ミリを使用した。黒澤は後述の宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。

撮影は奈良奥山のロケーションで始まり、杣売りが斧を担いで山奥へ入るシーンでクランクインした。7月17日から光明寺でロケーション撮影をしたが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。

ポストプロダクション
8月17日に撮影終了したが、公開日は8月26日に決定していたため、1週間で編集とダビング作業をすることになり、そのうえ2度にわたる火災に巻き込まれるというトラブルも発生した。最初の火災は8月21日午後6時、ダビング作業をしていた録音室のすぐ隣の大映京都撮影所第2ステージで出火した。オリジナルネガは無事だったが、慌ててダビングマシンを持ち出したため機材はバラバラになり、旧式の機材で作業を続けなければならなくなった。さらに録音した三船の音声の一部も消失し、帰京していた三船を呼び戻して録音し直すことになった。その翌日にダビング作業を再開するが、そこで2度目の火災が発生した。今度はフィルムが映写機に引っかかって引火し、セルロイドフィルムから放出される有毒ガスにより、30数人のスタッフが倒れた。
それでも黒澤たちは公開日に間に合わせるため残り2日間でダビング作業を行い、8月24日午後7時頃に初号プリントが完成し、すぐに夜行列車で東京の本社に送られた。翌8月25日に京橋の大映本社で試写が行われたが、同席した田中徳三によると、試写が終わって数分の沈黙のあと、永田社長が「なんかよう解らんけど、高尚なシャシンやな」と語ったという。

撮影と映像美
黒澤は本作でサイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画『ひとで』『貝殻と僧侶』などの手法を研究した。本作はその試みを実験する格好の素材となった。黒澤は次のように述べている。

私は、人間の心の奇怪な屈折と複雑な陰影を描き、人間性の奥底を鋭いメスで切り開いてみせた、この芥川龍之介の小説の題名『藪の中』の景色を一つの象徴的な背景に見立て、その中でうごめく人間の奇妙な心の動きを、怪しく錯綜した光と影の映像で表現してみたかったのである。
— 黒澤明『蝦蟇の油』


宮川は「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎることで劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。

森の中のシーンでは、光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は初めて露出計を使用した。宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、光量が変化しやすい森の中の撮影に対応するため、進駐軍が持っていた露出計を手に入れた。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は地上数メートルの高さに野球ネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。

本作では、カメラを太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽をじかに撮るとフィルムを焼くと考えられてタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。

三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。

演技
黒澤は俳優に本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリでマーティン・ジョンソンの古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ」と指摘した。黒澤は「人間をアニマルにしようと思った」と述べている。佐藤忠男は「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画をみんなで見たときに、クロヒョウが画面に現れて京が両手で顔を隠した姿勢を、そのまま真砂の演技に取り入れた。

ヒューマニズム
本作は人間不信の物語であるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。このシーンは公開後に国内外で取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けたが、これに対して黒澤は淀川長治との対談で次のように語っている。

よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門』で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。
— 黒澤明、淀川長治「人間を信ずるのが一番大切なこと」


音楽
本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの「ボレロ」に似た音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で「ボレロ」のリズムが思い浮かんだからだという。「ボレロ」の故国フランスでは、あまりにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル・ボレロだと主張して事なきを得た。

公開と評価
1950年8月25日、大映本社での試写の1時間後、帝国劇場で行われた読売新聞社主催の湯川奨学金公募で特別上映され、その翌日に劇場公開された。1950年度の大映作品の興行成績で4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところ、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容のため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンで5位にランクされる程度だった。

ヴェネツィア国際映画祭
同年末、日本映画連合会にカンヌ国際映画祭から出品依頼が届き、選考により本作と今井正監督の『また逢う日まで』が候補に絞られた。しかし、本作は音楽がボレロに似ていることを指摘されたため推薦から外された。当時の映画会社は国際映画祭に関心がなく、出品に必要なプリント代や字幕作成などの費用が無駄だからと出品を渋り、『また逢う日まで』も東宝が出品を取り下げた。同時にヴェネツィア国際映画祭からも出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。ストラミジョーリはその理由について、次のように語っている。

『羅生門』に私は非常な驚異を感じました。賞を得られるかどうかはともかくとして、これは相当の話題を呼ぶということがまず第一条件でしょう。その意味で『羅生門』は非常に特色を持つ映画で、しかも日本的であったから、全く適切だと思いました。テーマの扱い方、描き方、その映画に流れている精神と人間性ということも充分優れていると思いました。
— 「ストラミジョリさんは語る」


しかし、大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイ(本文ママ)さんの理解ある配慮によるもの」と述べており、大映営業調整部長の山根啓司も「ほんとうにあそこに出すようになったのはストラミジョリさんの功績です」と述べている。

1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。バラエティ誌の記者は「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、スタッフやキャストの見分けがつかず、「セイノブ・ハシモトは自堕落な盗賊を情熱的に演じている。トスィオ・ミフメはドラマチックで濃厚な役だ。アチラ・クロサワは仏頂面で反応の薄い夫役をこなしている」と名前も間違えて報告していた。

9月10日の授賞式でグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけ、彼に金獅子像を受け取らせた。

受賞後とその影響
本作のグランプリの報は、敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。リヨンに留学していた遠藤周作は「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである」と書いている。ヨーロッパ在住のイサム・ノグチは本作を見て、ヨーロッパを威張って歩くことができたという。

大映社長の永田は、受賞報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返したという。永田は本作に批判的な態度を取り、映画祭出品にも無関心だったが、受賞後は手のひらを返したかのように絶賛し、自分の手柄のように語ったため、周りから「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄された。金獅子像も永田が手にして社長室に飾り、黒澤たち関係者にはレプリカを配った。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカはRKO、イギリスはロンドン・フィルム、イタリアはベロッティ・フィルムと契約を結んだ。

この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』や衣笠貞之助監督の『地獄門』、溝口健二監督の『雨月物語』などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて疲弊したとされている。

黒澤はグランプリの受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心ではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材で賞を獲るべきだと主張している。

勿論、嬉しいことは嬉しい、嬉しいのですが、ただああいう作品ではなく、もっと今の日本の現実に触れた題材、例えば、『戦火のかなた』や『自転車泥棒』のような作品を作れて、それで入賞できたら、意義もあり、もっと嬉しくもあったでしょう。この判定には、だいぶエキゾチックなものに対する西欧の好奇心、いや、日本の苦しさに対する同情などもはいっているんじゃないでしょうか。その点では、この作品は却って外国向きだったかもしれませんが。
— 「日本映画『羅生門』にヴェニス大賞輝く」より、黒澤明の談話


また、黒澤は受賞祝賀会で次のような発言をしている。

日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。
— 「黒澤明、自作を語る」

 

1982年、ヴェネツィア国際映画祭50周年を記念して、イタリアのレ・パプリカ新聞が発表した「グランプリ作品中のグランプリ」に選出された。

海外での評価
アメリカでは、1951年12月6日にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本映画専門館リンダ・リーで期間限定で上映された。現地にいた淀川長治によると、俳優のリー・J・コッブが連日観に通っていたという。その前の10月からRKOは大映と配給交渉を行い、リンダ・リーでの公開後に米国配給権を購入し、12月26日にニューヨークのリトル・カーネギー・シアターで正式にプレミア上映した。アメリカで日本映画が商業上映されたのは、1937年に成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のやうに』が公開されて以来だった。同劇場だけで公開後3週間で3万5000ドルの興行成績を収めた。当時アメリカにいた三島由紀夫もニューヨークで本作を見ており、「知識階級のあいだでは『羅生門』の評判は非常なものである」と紹介した。

1952年の第24回アカデミー賞では、名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞したが、授賞式には黒澤をはじめ日本映画関係者がひとりも出席しなかったため、急遽代理で出席した在ロサンゼルス日本国総領事館総領事の吉田健一郎がオスカー像を受け取った。翌1953年の第25回アカデミー賞でも、美術監督賞 (白黒部門)で松山崇と松本春造がノミネートされ、授賞式には淀川長治が出席した。

海外の映画批評家の多くは、本作に対して好意的な評価をしている。ニューヨーク・タイムズ紙のボズレー・クラウザーは「この映画が持つパワーのほとんどは、黒澤監督が用いたカメラワークの素晴らしさに由来している。撮影は見事で、映像の流れは言葉にできない表現力がある。音楽や効果音も見事であり、役者たちの演技も刺激的だ」と評した。ロジャー・イーバートは本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには55件のレビューがあり、批評家支持率は98%で、平均点は9.22/10となっている[58]。Metacriticには18件のレビューがあり、加重平均値は98/100となっている。

海外の映画監督からも高い評価を受けている。2012年にBFIの映画雑誌サイト・アンド・サウンドが発表した「史上最高の映画ベストテン」の監督投票で、ウディ・アレン、ロイ・アンダーソン、アスガル・ファルハーディーなどがベスト映画の1本に投票した。サタジット・レイは「その映画が私個人に与えた影響は、光の使い方であった。私はその映画を3日間立て続けに見たが、そのたびに、いったいほかのどこに、映画制作の一切の面で、これほどまでに監督の指揮がゆきとどき、きらめいている作品であるだろうかと思った」と評価した。

受賞とノミネートの一覧
キネマ旬報ベスト・テン    1950年    日本映画ベスト・テン   5位  
ブルーリボン賞    1950年    脚本賞    黒澤明 橋本忍    受賞   
劇映画ベスト10        4位
毎日映画コンクール    1950年    女優演技賞    京マチ子    受賞    
ヴェネツィア国際映画祭    1951年    金獅子賞    黒澤明    受賞    
イタリア批評家賞    黒澤明    受賞
アカデミー賞    1951年    名誉賞        受賞    
1952年    美術監督賞 (白黒部門)    松山崇 松本春造    ノミネート   
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞    1951年    監督賞    黒澤明    受賞   
外国語映画賞        受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞    1951年    外国語映画賞        次点  
英国アカデミー賞    1952年    総合作品賞        ノミネート   
全米監督協会賞    1952年    長編映画監督賞    黒澤明    ノミネート