続 社長太平記
 ★★★

1959年(昭34)3月15日公開/総天然色・シネスコ・104分
製作    藤本真澄    脚本    笠原良三     監督    青柳信雄
撮影    西垣六郎    音楽    松井八郎     美術    小川一男
出演-森繁久彌・小林桂樹・加東大介・三木のり平・越路吹雪・団令子・三好栄子・淡路恵子・山茶花究・春川ますみ


前作「社長太平記」の続編。
監督は松林宗恵から青柳信雄に変更となった。正続の途中での監督変更は珍しい。またモノクロからカラーにも変更となっている。

前作のラストで会社の九州進出が予告されていたが、本作はその九州が大筋の舞台となっている。また団令子と三好栄子がそれぞれ二役で登場。構成の苦心の跡が見られる。

小林桂樹のキャラが前作とは違って平身低頭キャラに変更となっている。
やはり小林は偉ぶらずに気配りキャラが似合う。

ラストはそれぞれのカップル、小林と団令子、加東大介と越路吹雪、森繁と三好が軍艦マーチで騒いで踊る姿で終わる。正編のトップは戦時中のモノクロのニュースに、同じ軍艦マーチが流れていたが、続編ラストはダンスホールで平和に踊るカップルたちとなり、その違いが面白かった。

以下Wikiより転載
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『続・社長太平記』は、1959年3月15日に公開された『社長シリーズ』第7作の映画。製作、配給は東宝。カラー、東宝スコープ。

前作『社長太平記』の続編で、シリーズでは初のカラーとなったが、松林宗恵監督が前作で降板したため、青柳信雄に監督が代わった(青柳がシリーズ監督を担当するのは『おしゃべり社長』を除けば唯一)。また音楽も、宅孝二から松井八郎に代わっている。

なお『社長シリーズ』は、1960年12月25日公開の『サラリーマン忠臣蔵』(監督:杉江敏男)まで1年9ヶ月休止し、その間に傍系作品『新・三等重役』シリーズ4作が製作・公開された。

同時上映
『海から来た男』
宝塚映画作品/監督:山崎芳照/主演:神戸一郎

なお、3月21日からはこの作品に代わって『鉄腕投手 稲尾物語』(監督:本多猪四郎)との2本立てとなった。

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三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963年7月28日)は、日本の女優である。東京市出身。夫は映画プロデューサーの森田信義。黒澤明映画をはじめ多くの東宝映画に出演した。

略歴・人物
東京市神田区神保町出身。1912年、跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。

トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年、新国劇結成に参加する。しかし、沢田夫人である渡瀬淳子と衝突して新国劇を脱退、芸術座に復帰を許されるが、島村抱月や松井須磨子の相次いで亡くなったことで芸術座は解散。

1919年、辻野良一、五月信子らと大衆劇の劇団である新声劇の結成に参加し、中心女優として活躍する。
1925年、新声劇の奥役を務めていた森田信義と結婚、翌1926年、新声劇を退団し、小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に入り、森田も文芸部長として共に所属する。国民座ではトップ女優として人気を得るが、同じく幹部女優だった出雲美樹子との確執からまたも脱退、以降はさまざまな劇団を渡り歩き、大阪松竹歌劇団の講師となり演技を指導する。舞台にも終戦時まで出演を続けていたが、主に脇役にまわされることが多くなった。

第二次世界大戦後は、黒澤明監督に請われたのがきっかけで映画界入りし、1946年、黒澤の戦後第1作『わが青春に悔なし』で52歳にしてはじめて映画に出演、かつての艶姿とは打って変わって、ギョロ目と大きな口が特徴の性格女優として活躍し、以降は50年代にかけて黒澤作品をはじめ木下恵介、成瀬巳喜男、小津安二郎、溝口健二、五所平之助、市川崑、豊田四郎といった日本を代表する監督の作品に立て続けに起用された。

また、東宝のサラリーマン喜劇では森繁久彌演じる主人公が最も恐れる社長会長(先代社長の未亡人)という役どころで多数出演し、順風満帆の役者生活を送っていた。しかし、私生活では1951年、夫の森田が完成試写を見るために自宅から撮影所へ自動車で向かう途中、急行電車と衝突し死亡する悲劇に見舞われている。

1959年、仲代達矢主演の『野獣死すべし』での出演を最後に病気のために引退、映画出演は13年間で110本を数える。

1963年7月28日午後5時10分、老衰で世を去った。