続 社長三代記
 ★★★

1957年(昭32)3月18日公開/モノクロ・シネスコ・95分
製作    藤本真澄    脚本    笠原良三     監督    松林宗恵
撮影    小原譲治    音楽    宅孝二     美術    村木与四郎
出演-加東大介・小林桂樹・三木のり平・雪村いずみ・杉葉子・司葉子・徳川夢声・淡路恵子・団令子・藤間紫・扇千景・森繁久彌


前作から約二ヶ月後ぶりに公開された続編。
今回はトップクレジットが「加東大介 小林桂樹」となっていて、止めが「森繁久彌」となっている。

「堅物」加東社長の話が中心に進行していく。社長就任挨拶の先生として徳川夢声を呼んで、絶叫調の演説を直すのに四苦八苦。
その夜はお馴染みの宴会芸の披露となる。小林桂樹が口上役、三木のり平が男子学生、加東大介が娘役を披露するのだが、何故か加東の顔アップがなく、それほど面白くはない。

そして社長は大阪に行く飛行機の中で、マダム淡路恵子と知り合い大阪のクラブへと足を運ぶ。そこで宿敵・有島一郎の策略で甘い戯言が盗聴されてしまう。
会長の三好栄子が社長室に乗り込んでテープを聞かす。このシーンはもっと面白く出来ただろうに残念だ。ホステスとの普通のリラックスした会話ではなく、ホステスの受けを狙って犬の遠吠えを真似るとか、カエルの鳴き声をするとか、もっと壊れてほしかった。

終盤近くになって森繁が出て来るとホッとする。
やはり社長シリーズは軽佻浮薄な森繁社長が一番合っていると感じた。

以下Wikiよの転載
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『続・社長三代記』は、1958年3月18日に公開された『社長シリーズ』第5作の映画。製作、配給は東宝。モノクロ、東宝スコープ。

概要
シリーズでは唯一、加東大介が社長役になった話。

同時上映
『おトラさんのホームラン』
原案:西川辰美、原作:有崎勉(柳家金語楼)、監督:小田基義、主演:柳家金語楼。シリーズ第2作目。
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司 葉子(つかさ ようこ、1934年〈昭和9年〉8月20日 )は、日本の女優。
日本大正村第2代村長。東京福祉大学特任教授。本名は相澤 葉子(あいざわ ようこ)。旧姓は庄司。東宝芸能所属。

夫は、弁護士で元自由民主党衆議院議員の相澤英之。三男・相澤宏光の妻は歌手・タレントの相田翔子。実業家・政治家の庄司廉は伯父にあたる。

経歴 
鳥取県西伯郡渡村(現在の鳥取県境港市渡町)に庄司繁二郎の三女として生まれたが、6歳の頃に父を亡くした。鳥取県立境高等学校を経て共立女子短大卒業。

1954年4月、大阪の新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)に入社し、社長秘書を務める。共立女子短大に在学中、ハリウッドビューティサロンを利用。ちょうど美容家のメイ牛山が雑誌モデルを探しており、同年『家庭よみうり』の表紙を飾ったのがきっかけでスカウトされ東宝と契約。映画『君死に給うことなかれ』でデビュー。

後の星由里子を彷彿とさせる「『清く正しく美しく』を社是とする東宝の健全なお嬢さんイメージを代表する一人」とされ、看板女優として活躍。目鼻立ちがはっきりしており優雅なムードを醸し出す司は戦後の映画界に新しい風を吹き込んだ。

1966年の映画『紀ノ川』(原作:有吉佐和子)では第40回キネマ旬報賞主演女優賞・第9回ブルーリボン賞主演女優賞・第22回毎日映画コンクール主演女優賞・日本映画記者会賞最優秀女優賞など数々の賞を受賞し、その年の7つの演技賞を独占した。

1969年に当時大蔵官僚だった相澤英之と結婚。相澤が第34回衆議院議員総選挙に司洋子の出身地である旧鳥取全県区から立候補した際には、婦人講演会や個人演説会まわりに参加して相澤の選挙戦を支えた。

1999年に日本大正村の村長に就任。2003年、紫綬褒章を受章。2009年に相澤が学長を務める東京福祉大学の特任教授に就任。2010年秋、旭日小綬章を受章。

人物
1963年(昭和38年)朝日新聞社刊行の『新・人国記4』137-138頁によると、
「境港市を“小神戸”と呼ぶ表現がある。中海側へまわって神戸でいえば須磨にあたるところに渡の集落。東宝のトップ女優司葉子の出身地。美人。細身の、ソソ(楚楚)たるタイプ。地元では代表的女性とあって、名産二十世紀ナシの宣伝ポスターにいつも登場する。後醍醐天皇の時代に、祖先が“密使”を勤めたとの伝説を持つ家。六歳のとき生糸問屋の父が亡くなって母の手で育った。境高校から東京の共立女子大に学んでいたとき、週刊誌の表紙になり、その縁で、大阪の民放に勤務中、東宝へスカウトされた。清純派で売出されて、“秋日和”など出演作品70本。ツンとしたところがないので、スタジオではいまも“葉子チャン”と愛称されている。」と紹介されている。芸能界入りを決意しようとした葉子に対し、家族は大反対だった。

安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』206頁によると、

「葉子ちゃんの生家は渡村の大庄屋、庄司家の分家さんであるが、本家の大殿様はまこと古武士の風格を持った方で、池部良氏のスカウトにこたえ、芸能界入りを決意しようとした葉子ちゃんと分家ご一統に対し“庄司の一門から河原こじきを出したとあってはご先祖様に顔向けがならん。あえてこれを行おうというのなら、未来永劫縁を断つ”天上からの声が下った。池部良氏はこの声を、何とかしてくれというのである。本家庄司の大旦那さんは、庄司廉さんとおっしゃって、県の教育委員も何期かやられ、現在米子博愛病院の理事長である庄司保親さんのご尊父である。まことに格式高い、東郷元帥そっくりの風貌を備えた方だった。」という。

女優として
『君死に給うことなかれ』(1954年)で映画デビュー。この作品は病気降板した有馬稲子の代役であり、映画は一本しか出演しないと決めていたが、池部の強い説得により正式に映画女優の道を歩むこととなった。「君は色気がないから、庄司葉子の庄の字をとって司葉子にしなさい」と勧めて芸名を作ったのも池部である。

1959年(昭和34年)3月2日から6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため、同3月1日、池広利夫(大映営業渉外部長)、山梨稔(新東宝専務)や芦川いづみ(日活)、大川恵子(東映)、大空眞弓(新東宝)、小山明子(松竹)、若尾文子(大映)ら他の映画会社各社代表女優たちと共に東宝代表女優としてドイツへ出発。同3月1日、ベルリン着。ベルリンでの宿泊先はヒルトン・ベルリン。3月3日、記者会見。3月4日、CCCスタジオ訪問。3月5日、ベルリンを出発しミュンヘンに到着。ミュンヘンでの宿泊先はケンピンスキー・ホテル・フィア・ヤーレスツァイテン(Hotel Vier Jahreszeiten)。3月7日、記者会見。3月9日、女優たちのサイン会が開かれた。3月10日、バヴァリア・スタジオ(Bavaria Film)見学。同4月2日、約1ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。当時はまだ海外渡航自由化の前で、大変貴重なヨーロッパ訪問となった。

交流関係
奥出雲の山林大地主田部家の当主田部長右衛門 (23代)は若い頃、葉子の父・繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり、葉子の姉妹揃って大いに可愛がったという。また、田部は葉子の結婚式に親代わりとして出席している(『田部長右衛門(朋之)先生追悼録』)。

美容家のメイ牛山とは、デビュー前から半世紀以上も親交があった。また、原節子とは原が引退してから亡くなるまで交流があった。

その他のエピソード
恵那峡などで撮影が行われた映画『青い山脈』の縁で、高峰三枝子の後任として1999年に岐阜県恵那市にある日本大正村の二代目村長に就任し、2015年まで務めた(後任は竹下景子)。退任後は恵那市観光協会の「花の特命大使」に就任している。

橋本龍太郎が総理大臣だった1997年の暮れに、三船敏郎が亡くなったので国民栄誉賞を没後授与するように直訴している。戦後復興期に、三船が主演した『羅生門』が世界的に評価され、日本映画を広く知らしめることになったなどの理由による。だが結果としてスキャンダル対応中の橋本から、愛人がいた三船さんに賞をあげるとまた僕がスキャンダルを書かれると言われ、たち消えとなった。ちなみに司は女優として黒澤明監督作品で、三船敏郎との共演が8回と2番目に多い。

1934年生まれであるが、昭和九年会には参加していない。