社長三代記
 ★★★★

1957年(昭32)1月3日公開/モノクロ・シネスコ・86分
製作    藤本真澄    脚本    笠原良三     監督    松林宗恵
撮影    小原譲治    音楽    宅孝二     美術    村木与四郎
出演-森繁久彌・小林桂樹・加東大介・雪村いずみ・杉葉子・有島一郎・三好栄子・三木のり平・司葉子・英百合子・トニー谷


前作から約半年ぶりの「社長シリーズ」最新作。昭和32年の東宝お正月映画。
この作品から画面がモノクロのシネスコサイズになっている。

この回は何と言ってもシリーズ初登場の加東大介の演技が見もの。
実直で鈍重な営業部長が会長である三好栄子に見込まれて、森繁社長の米国出張の際の臨時社長に抜擢させられる。バーや芸者遊びに忙しかった森繁社長と違って堅物の加東社長に、小林桂樹の秘書も手持ち無沙汰状態。

そして、クソ真面目な加東は熱があるのに水風呂に入って会社に出社。全社員に風邪予防を放送で訓告するのだが、その間に寒気がして体が震え、鼻水流しながらも放送を強行する。このシーンの加東大介には大笑い。まったく芸達者だ。

ラストが中途半端だが、加東の登場でますます面白くなりそうだ。

以下Wikiより転載
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『社長三代記』は、1958年1月3日に公開された『社長シリーズ』第4作の映画。
製作、配給は東宝。モノクロ、東宝スコープ。 86分。

キャッチコピーは「人が変われど三等社長は、よろめくものと見つけたり」。

概要
「社長シリーズ」初のシネマスコープ作品であると共に、シリーズのメイン監督である松林宗恵が初めて関わった作品。
本作から加東大介がレギュラーに加わる。

ロケ地
東京フィルムビル(福富電機)
旧東宝本社ビル屋上(福富電機屋上)
銀座三丁目昭和通り
羽田空港

同時上映
『柳生武芸帳 双龍秘剣』
原作:五味康祐 / 監督:稲垣浩 / 主演:鶴田浩二

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加東 大介(かとう だいすけ、本名:加藤 徳之助、1911年2月18日 - 1975年7月31日)は、日本の俳優。

東京市浅草区(現:東京都台東区)生まれ。身長160cm。東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒。歌舞伎役者を経て映画デビュー。代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。

来歴・人物
父親は宮戸座の座付き作者で演出助手であった竹芝傳蔵、兄は四代目沢村国太郎、姉には福祉運動家の矢島せい子と沢村貞子がいる。甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。息子・加藤晴之は、黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるが離婚している。
 

「自分のこどもはみな役者にする」という父親の意向で、兄とともに歌舞伎の世界に入った。

東京府立第七中学校を卒業後、1929年に二世市川左団次に入門、1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗る。まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍する。同年には大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、中堅俳優の一人として広く知られるようになる。

兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の戯曲『関の弥太っぺ』などを演じる。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、のちの加東自身が執筆した小説『南の島に雪が降る』に結実する。なお、その時劇団で一緒だった九州出身の僧侶が、漫画家小林よしのりの母方祖父である。戦後もたびたび彼の寺を訪れていたという。

1946年に復員するも、直後に戦地でかかった悪性マラリアが再発し、一時は危険な状態が続く。回復してからは再び役者として活動するが、左傾した前進座に嫌気が差して退団、兄の国太郎、姉の貞子とともに神技座を結成するも、運営が上手く続かず映画入りを決意する。1948年からは大映京都と専属契約し、同年の東横映画『五人の目撃者』では作品が現代劇であったことから、歌舞伎役者くさい莚司という芸名から加東大介に改名する。

1950年に黒澤明監督の『羅生門』に出演したのち、1951年秋にフリーとなり東宝に移籍する。以降、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)をはじめ、黒澤作品に常連として出演する。1952年に黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』での明朗できびきびとした演技が批評家から絶賛され、1952年度の毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の男優助演賞を受賞、1955年には今井正監督の『ここに泉あり』、内田吐夢監督の『血槍富士』で2度目のブルーリボン助演賞を受賞した。

持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、この時期は監督運にも恵まれる。また1956年に東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、監督の千葉泰樹に獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、加東はユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、映画は大ヒット。大番シリーズは4本も作られ、ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでになった。また森繁久彌、小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、日本映画にかかせない名脇役として人気を博した。

1956年頃『週刊朝日』の「夢声対談・問答有用」でニューギニアでの戦争体験を語ったところ、徳川夢声から是非執筆するよう強く勧められ、また小島正雄からも勧められて執筆を行い、『文藝春秋』1961年3月号にて「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表。これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞、のちにベストセラー小説となった。1961年4月この内容が小野田勇の脚色によって『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、後東宝で映画化され加東自身が主演して大いに話題となる。

晩年は映画のみならず、テレビや舞台でも活躍、1971年には28年ぶりに前進座の舞台にも立った。1972年には大河ドラマ『新・平家物語』で北条時政を演じた。1975年2月に結腸癌で入院、本人は癌であることは知らず、病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けたが、入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死去した。遺作は倉本聰脚本『6羽のかもめ』のマネージャ役。『七人の侍』の中では生き残った侍であったにも関わらず、最初に鬼籍に入る。下町っ子らしい気風の良さで誰からも好かれた反面、一滴の酒も飲まなかったという。

受賞歴
1952年 第7回毎日映画コンクール 男優助演賞:「おかあさん」、「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」
1952年 第3回ブルーリボン賞 男優助演賞:「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」、「おかあさん」
1955年 第6回ブルーリボン賞 男優助演賞:「血槍富士」、「ここに泉あり」
1961年 第20回文藝春秋読者賞:「南海の芝居に雪が降る」