続 へそくり社長

★★★★

1956年(昭31)3月20日公開/モノクロ・スタンダード・91分

製作 藤本真澄 脚本 笠原良三 監督 千葉泰樹

撮影 中井朝一 音楽 松井八郎 美術 河東安史

出演 森繁久彌・小林桂樹・司葉子・八千草薫・上原謙・古川緑波・沢村貞子・越路吹雪・藤間紫

◯同時上映『漫才長屋は大騒ぎ』
原案:秋田実/脚本:中川順夫/監督:山崎憲成/主演:ミヤコ蝶々

 

1月に封切られた「へそくり社長」の続編。

トップシーンでカメラ向きに森繁が、前回までのあらすじを述べる。

 

この回は小林と司、八千草と上原の恋の行方を中心に描かれる。

お人好しの小林と、八千草を恋敵と勘違いし対峙する司の無鉄砲ぶりが可愛い。そして人生欲しい物をすべて手に入れてきた上流階級の八千草が、自分を振って外国に単身旅立つ上原に惚れてしまうオチも良い感じ。

 

また小唄の師匠、藤間紫を巡っての、森繁・越路夫婦と古川・沢村夫婦のやり取りが絶妙に面白い。このシリーズ全作の脚本を執筆した笠原良三の職人芸には瞠目する。

 

以下Wikiより転載

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『続へそくり社長』は、1956年3月20日に東宝系で公開された日本映画。モノクロ。スタンダード。91分。

キャッチコピーは「へそくり浮気の最中に 会社を見事にへそくられ 泣きべそ社長の珍逆襲」

『へそくり社長』の続編にして『社長シリーズ』の第2作。プロローグでは、森繁久彌扮する田代社長による前作のあらすじが述べられる。

ロケ地
紙パルプ会館(明和商事)
銀座東三丁目交差点
新橋駅東口
聖徳記念絵画館前
六義園

 

以下「小林桂樹」のWikiより転載
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小林 桂樹(こばやし けいじゅ、1923年〈大正12年〉11月23日- 2010年〈平成22年〉9月16日)は、日本の俳優。サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、その生涯において253本の映画に出演した。

『裸の大将』の山下清の演技で1958年第13回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技では1960年の第15回毎日映画コンクール主演男優賞およびキネマ旬報男優賞およびブルーリボン大衆賞(つまり3つの賞)を受賞。『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技により1963年第18回毎日映画コンクール主演男優賞を、『われ一粒の麦なれど』の坂田昌義(農政省官吏)の演技で1964年第15回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。

来歴・人物
群馬県群馬郡室田町(現・高崎市)出身。父親が警察官という家庭に生まれる。桂樹の名はオリンピックの勝利のシンボル月桂冠のもととなる月桂樹にちなんで命名したという。1934年に前橋市立桃井小学校を卒業、宇都宮の陸軍幼年学校を受けるが不合格となり旧制群馬県立前橋中学校に進学。芝居や映画はもともと好きであったが、在学中は友人からよく映画などに誘われてもきちんと校則を守り、一度も映画館に足を運ばなかったというまじめ人間だった。しかし中学4年の時に父親が病死したため、千葉県市川市に住んでいた伯父を頼って一家が引っ越し、桂樹のみ父親の同僚の家に下宿して通学する。前橋中を準卒業という形で出て、その後は日本大学専門部芸術科(現在の日本大学芸術学部)に進むも学費が払えぬようになり、1941年に中退する。

映画の世界へ
大学時代にアルバイトで伯父の勤めていた朝日新聞社校閲部の給仕を勤め、津村秀夫や飯沢匡などの映画評論家や映画記者と接するうちに映画の世界に憧れを持つようになる。平凡なサラリーマンにはなるまいと思い、相談した伯父からは自分の好きなことをやれと勧められ、また給仕仲間から一緒に役者にならないかと誘われる。日活、東宝、松竹の入社試験を受け、唯一学歴を問わなかった日活へ入社、日活演技研究所の研究生となる。太平洋戦争開戦後の1942年に『微笑の国』の工員役でデビュー、さらに『将軍と参謀と兵』など3作品に出演する。翌1943年に日活の製作部門が新興キネマ、大都映画と合併し新会社大日本映画製作株式会社となり、自動的に専属となる。ここでは『菊池千本桜』にて軍神松尾大尉役で主演するが、徴兵適齢のため8月に徴兵検査を受け甲種合格。12月に二等兵として帝国陸軍へ入営し、中国大陸に出征する。

終戦、本格的に役者の道へ
終戦により復員後は1946年の『君かと思ひて』でスクリーンへ復帰、折原啓子の恋人を演じ二枚目として売り出す。1951年には急遽出演出来なくなった千秋実の代役として『その人の名は言えない』に主演したことがきっかけで、二枚目でも三枚目でもない独自の演技が周囲に認められ始め次第に頭角を現す。その後同年に東宝のサラリーマン物『ホープさん』で主役を務め、その明朗快活さで注目され、翌1952年に藤本真澄の誘いで東宝と契約。源氏鶏太原作の『三等重役』から、引き続き森繁久彌が主役を演ずる『社長シリーズ』(1956年 - 1971年)の全てに出演。真面目で頑なな秘書役など、平凡で健全な一般庶民を演じて人気を得た。

1955年に今井正監督の『ここに泉あり』で毎日映画コンクール助演男優賞を受賞、さらに1958年には出演百本記念映画として制作された『裸の大将』で実在の画家・山下清を演じ、同映画コンクール主演男優賞を受賞した。知恵遅れを馬鹿にした映画だと一部からは非難されたが、劇中でのどもりながらの台詞「兵隊の位にすると…」は流行語になった。

1960年に『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、1961年には松山善三の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』に主演し、喜劇のみならずシリアスなドラマでも活躍、特に『黒い画集 あるサラリーマンの証言』ではキネマ旬報男優賞、ブルーリボン大衆賞、毎日映画コンクール主演男優賞と、各映画賞を総なめにした。1963年には岡本喜八監督、山口瞳原作の『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の中年サラリーマンを演じ、毎日映画コンクール主演男優賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞を受賞する。『裸の大将』や『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などで小林と長く接してきた堀川弘通監督に「きわめて平凡な人間の姿から非凡な演技がほとばしり出るかけがえのない俳優」と評される。

テレビ界に進出
しかし、映画界が衰退の一途をたどり始めた1964年頃からは小林に向く企画が減り始め、植木等の無責任男や加山雄三の若大将の台頭もあって次第に小林の演じる庶民像は時代とのズレが目立ち、批評家からは「戦前の古いモラルの殻から抜け切れず、戦後の時代になってもそれを背負って生きている、良くも悪くも戦中派の代表格」と評されるようになる。この頃からテレビの出演が増え始め、その明るいキャラクターから1966年にはTBSの『おはよう・にっぽん』の司会者に抜擢されるも視聴率が上がらず降板する。

だが、1973年、小松左京原作のベストセラー小説を映画化した『日本沈没』で日本の危機を示唆する田所博士役を演じ、特にテレビ出演のシーンでの鬼神に迫る演技で撮影スタッフを驚かせた。翌1974年から放送されたテレビドラマ版『日本沈没』でも引き続き同役を演じた。

1975年に始まった『江戸の旋風』から、1981年まで放送された『江戸の朝焼け』までの江戸シリーズに5年以上連続で出演、1984年のスペシャル版にも出演した。小林はこのシリーズについて、「水戸黄門が終わるとすぐ次に大岡越前に出演する様なものであった。」と回想した。

1984年には9年ぶりに復活した『ゴジラ』で内閣総理大臣役を演じた。

代表作である『牟田刑事官事件ファイル』シリーズでは1983年10月の第1話から2007年6月の最新話(撮影は2005年8月)まで主役を務めたが、出演期間中の2001年に緊急入院するなど健康状態が危ぶまれた時期があった。また、この時期はNHKの金曜時代劇『山田風太郎からくり事件帖〜警視庁草紙より〜』出演期間中でもあった。晩年はツーカーの「ツーカーS」のCMに出演していた。

アニメーション作品では、ウォルト・ディズニーの『わんわん物語』で主人公・トランプ、スタジオジブリ制作の映画『耳をすませば』では「地球屋」の主人・西司郎(主人公の恋人の祖父)を演じた。

晩年
2010年3月、小野ヤスシの50周年記念パーティーで祝辞を述べたのが公の場での最後の姿となった。同年7月に軽症肺炎で東京都内の病院に入院して以後は療養生活を送っていたが、同年9月16日午後4時25分、東京都港区の病院で心不全のため死去。86歳没。

遺作は2009年公開の『星の国から孫ふたり』(園長先生役)であった。また、2010年8月14日にTBS系で放送された『歸國』に出演する予定もあったが、体調が優れず降板していた。

2010年10月24日に東京會舘にて小林のお別れ会が開かれ、発起人には森光子、淡島千景、石井ふく子、八千草薫、仲代達矢、草笛光子、司葉子、津川雅彦、大林宣彦、北大路欣也、古谷一行、中井貴一、槇坪夛鶴子、吉川一義、小谷承靖等がなった。参列した八千草や津川などが小林の思い出話をした。他に三浦友和、浜美枝、黒沢年雄、音無美紀子、かたせ梨乃、紺野美沙子、賀来千香子、地井武男、黒田福美、薬丸裕英が参列している。特に中井貴一が小林に、惜別の思いを語っている。

エピソード
対人関係
石井ふく子が運転免許取得の際に、小林が運転指導したという。石井は小林を兄のように慕っていたという。
森光子とは、映画・テレビドラマ問わず複数共演しているが、『若者よ挑戦せよ』(1968年、東宝)では嫁と舅のかたちで出演。『せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談』(1977-1978年、TBS系)と『二人だけの結婚式』(1983年、TBS系)と『拝啓、父上様』(2007年、フジテレビ系)で夫婦役での共演も複数している。(『拝啓、父上様』では、森も小林も特別出演という形で出演)
東宝映画『激動の昭和史 沖縄決戦』で共演した丹波哲郎は、毎日遅刻で現場に入った。これはスターは定刻より遅く現場に入るという風習からの行動であり、スター・システムの東映では日常的な事であったが、ある日ついに共演者の小林から「ここは東宝なんだ、明日からちゃんと定時に来るように」と説教されたという。丹波とは他にも『八甲田山』『連合艦隊』『日本沈没』で共演している。
中井貴一は、1981年に東宝で公開された小林主演による『連合艦隊』でデビューした。また、1983年に公開された『父と子』では小林の息子役で出演した。当時自身の進路を俳優に決めるか悩んでいた中井を、小林は40日の撮影中毎日夕食に連れ出し「君は顔が不自由だから、顔の仕事は厳しい。就職先なら広告代理店を紹介できるよ」と説いたという。しかし、最終日になると「君には俳優になってもらいたいんだ。アウトローがうける時代が必ず来るから、その逆である王道を歩いてもらいたい」と本音を明かし激励したという。
甥のさいとうあきひこはNHK『ステージ101』にヤング101のメンバーとして出演し、音楽活動を続けていた。
2009年11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる森繁久彌のお別れ会に訪れた際には、「お互い悪口を言いながら楽しんで仕事してきた。そういう楽しみがなくなった」と惜しんでいた。
映画監督の橋本幸治とは、橋本が助監督時代から交友があったことから、橋本の監督作である『さよならジュピター』や『ゴジラ』に出演した。小林の長男がゴジラファンであったことから、ゴジラシリーズに出演経験のなかった小林は肩身が狭かったといい、『ゴジラ』の出演を受けて「やっと子供に尊敬される」と述べていたという。橋本によれば、小林は別撮りの会見シーンでも相手の演技を観察して自身の受け芝居を考えていたといい、橋本は当時新人であった沢口靖子に出番が終わっても遊びに出るのではなく、小林のように相手の芝居を見るように教えていたという。また、小林は自身が率先して橋本の指示に従うことで他の俳優もそれに従いやすくなるよう配慮していた。『ゴジラ』のラストシーンで、火口に落ちていくゴジラを見ながら小林演じる総理大臣が涙を流す演出は、脚本にはないもので、小林によるアドリブである。


その他
夏木陽介によれば、小林はサラリーマン映画が自身の出世作と自負しており、普段は洋物のタバコを吸っていたが人前では国産のハイライトを吸ったり、車も国産車にしか乗らないなど、庶民的なイメージを重視していた。また、ある共演作で理由なく1時間待たされた際に、夏木は怒って帰ってしまったが、小林は残っていたといい、周囲に気を遣う人物であったことを証言している。
ジブリ映画『耳をすませば』において西司朗役のアフレコを務めた際のエピソードとして、「最近のドラマはオドロオドロしたストーリーが多く、自分の家族に見せられる作品が少ないが、この作品はすごく綺麗で、演じていて清々しく、こういう作品に出演したかった。中一と中二の孫が出演を聞き大騒ぎで、尊敬のまなざしで見られた。役柄的に枯れた老人ではなく、元気でモダンなおじいさんにしたいと思い演じた。」と語り、また「しずくをまるで自分の恋人の様に扱っている、そんな一面がどこかに出たらいいな。」と語っていた。

受章・受賞歴

1955年 第10回毎日映画コンクール助演男優賞(『ここに泉あり』の井田亀夫の演技)
1958年 第13回毎日映画コンクール主演男優賞(『裸の大将』の山下清の演技)
1960年 第15回毎日映画コンクール主演男優賞、キネマ旬報男優賞、ブルーリボン大衆賞(『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技)
1962年 サンケイ新聞シルバースター賞助演男優賞
1963年 第18回毎日映画コンクール主演男優賞(『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技)
1964年 第15回ブルーリボン賞主演男優賞(『われ一粒の麦なれど』坂田昌義(農政省官吏)の演技)
1968年 ミリオンパール主演男優賞
1985年 紫綬褒章
1987年 NHK放送文化賞
1994年 勲四等旭日小綬章[15]
1995年 橋田賞