へそくり社長

★★★★

 

1956年(昭31)1月3日公開/モノクロ・スタンダード・83分

製作 藤本真澄 脚本 笠原良三 監督 千葉泰樹

撮影 中井朝一 音楽 松井八郎 美術 河東安史

出演 森繁久彌・小林桂樹・越路吹雪・八千草薫・藤間紫・司葉子・三木のり平・三好栄子・上原謙・古川緑波

◯同時上映『宮本武蔵 完結編 決闘巌流島』
原作:吉川英治、監督:稲垣浩、主演:三船敏郎。

 

14年間にトータル33本作られた「社長シリーズ」の第一作。

終戦から11年、高度成長時代への助走の期間に公開された喜劇映画。

6年前から始まった朝鮮戦争の特需で、国内はそれなりに景気が上向きはじめた時代。

 

この映画の源流は、4年前の1952年に公開された、源氏鶏太原作『三等重役』正続2本。映画では河村黎吉が社長、森繁久彌が人事課長、小林桂樹が秘書課の役柄。河村社長の昼食の蕎麦を森繁が鋏で切るギャグが初お目見えしているらしい。このギャグはその後の「社長シリーズ」に受け継がれていく。

 

さて本作、森繁が若々しく、そして痩せている。当時43歳。

小林桂樹が33歳。森繁の女房役・越路吹雪は32歳の若さ。

映画の始まりは森繁社長宅の朝食風景から始まる。この時代、戦勝国米国からの影響か、「白米は敵」だったらしく、森繁は朝からパンしか食べらせてもらえない。妻である越路は昼食も白米は食べないよう監視せよと秘書の小林に頼む。いつの時代にも健康志向は流行っていたようだ。

 

前社長の娘役の八千草薫が可愛い。当時25歳。翌年に19歳年上の谷口千吉監督と結婚している。三木のり平は当時32歳。映画内では森繁と一緒に宴会芸を披露している。内股の女形の姿は抱腹絶倒の可笑しさだ。

 

ラストは社員慰労会で大騒ぎしている料亭に、先代社長の妻であり会長でもある三好栄子が八千草と共に乗り込んできて「終わり」となる。

後編「続 へそくり社長」は約3ヶ月後に封切られている。

 

以下Wikiより転載

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『へそくり社長』は、1956年1月3日に公開された『社長シリーズ』第1作の映画。製作、配給は東宝。モノクロ。

キャッチコピーは「女房はコワイ! 浮気はしたい! 賞与(ボーナス)へそくる三等社長!」。

森繁久彌の社長、小林桂樹の秘書、そして三木のり平の宴会部長という、シリーズを通しての設定ができあがった作品。その後の正・続編の作りとは異なり、2作品を通してひとつのストーリーが完結する。

ロケ地
紙パルプ会館(銀座フェニックスプラザ)
旧帝国劇場
資生堂パーラー
松屋通り
朝日稲荷前
羽田空港

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森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年〈大正2年〉5月4日 - 2009年〈平成21年〉11月10日)は、日本の俳優・声優・歌手・コメディアン、元NHKアナウンサー。位階は従三位。最晩年はアクターズセブン所属。別表記︰森繁 久弥。身長168cm。血液型はB型。

昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満洲国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた。

また、『夫婦善哉』『警察日記』等の演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた。

『オホーツクの舟歌』『知床旅情』の作詞・作曲者であり、歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場している。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多い。先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られる。慈善事業にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。
受賞も数多く、紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、枚方市名誉市民、国民栄誉賞などのほか、1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章した。

来歴
生い立ち
1913年5月4日、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、その実弟は儒学者の成島柳北である。父の達吉は旧制第二高等学校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌(男爵・三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。

2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。

旧制北野中学から旧制早稲田第一高等学院に進み、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した。

演劇の世界へ
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年にロッパ一座を退座。1938年に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった。

1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。3ヶ月の養成期間終了後、満洲・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ。また、満洲各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された。さらに、満洲巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合った。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎がいる。

満洲時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊)の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している。

人気タレント・俳優として
帰国後は帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし、この間の1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1948年7月には菊田一夫の紹介で、創作座公演の『鐘の鳴る丘』に出演し、井上正夫と共演した。翌1949年に再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団し、同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演、演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めた。

1950年、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組でその才能に注目が集まり、映画や舞台に次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。以来B級喜劇映画に多数出演する。1951年、再び菊田に起用され、帝劇ミュージカル『モルガンお雪』で古川、越路吹雪と共演。

1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり、河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

1955年、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。

1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年公開のアニメ映画『もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。

映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演し、1959年に淡島と自由劇団を旗揚げ。1961年5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした。また、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年に帝劇で初演以降、1986年までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。

テレビドラマでは草創期から活躍しており、1958年に放送された、テレビ対映画の人間模様を描いた芸術祭参加の『マンモスタワー』では特別出演。ほか『七人の孫』、竹脇無我と親子を演じた『だいこんの花』、『おやじのヒゲ』で活躍。1957年からは出演者が加藤道子の二人だけという、NHKのラジオ番組『日曜名作座』で声色を変えて何役も演じ、再放送を含めて半世紀の間放送された。

1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回と第16回は映像が現存する。1966年の第17回には、「紅白はこれまで年忘れの座興と心得、小生はお付き合いして参りましたが、最近ではギャラ吊り上げの道具などという噂があります。そうしなければならない人に席を譲ってあげぬと、年寄りが憎まれることになりますので、折角の内示がございましたが、本年からは辞退することと致します」と皮肉を込めつつ出場を辞退した。スケジュールや体調の問題ではなく、番組に対する考えのもとで出場を辞退したのはこの時の森繁が初めてである。森繁はこの後もNHK紅白歌合戦には出場歌手としては一切出演することはなかった(応援ゲストでの出演はある)。

1960年に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『(原題︰さらば羅臼よ)知床旅情』を作詞・作曲し(シングル発売は1965年)、それを自ら歌うシンガーソングライターとしての活動も行っていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストであり、放送中に突然黒柳徹子の胸を触るというハプニングシーンは、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われている。森繁は同番組に通算13回ゲスト出演している。

1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。2007年に勇退後は永世名誉会長となった。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれ、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

晩年
1990年に妻・杏子(本名︰満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業の清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2000年に胆管結石のために緊急入院。2002年12月、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。

2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と『大遺言書』(語り森繁、文は久世)を週刊新潮で連載を開始、後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話がほとんど出て来なくなっていった。

2004年1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』(TBSテレビ)が俳優として最後の演技となり、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も、同年1月の坂本朝一元NHK会長のものが最期となった。

2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同年3月6日、健康上の理由から周囲が止めたが、それを押し切って久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも、再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「如何して僕より先に逝っちゃうんだよ…、長生きするって辛いのう…。」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが、これは1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている。このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラやステーキ等の肉料理にうぐいす餅・桜餅・おはぎといった季節の和菓子、常食のショートケーキにコップ一杯の牛乳をかけたもの、特大シュークリームなども平らげた。夜食を食べた後はホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っていた。またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。

2009年8月、同年7月に風邪を引き、そのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第11回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

同年11月10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去。満96歳だった。10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビ各局もニュース速報テロップを流し、ニュース番組ではほぼトップ扱いで森繁の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。

葬儀は故人の「こぢんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」と述べた。

葬儀・お別れの会
11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎元首相を始め、小林桂樹、佐野浅夫、竹脇無我、加山雄三、里見浩太朗、伊東四朗、ペギー葉山、樹木希林、梅宮辰夫、西郷輝彦、あおい輝彦、黒沢年雄、森公美子、関口宏、林家正蔵、野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒、中村メイコ、司葉子、西田敏行、和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した。祭壇には天皇からの祭粢料(さいしりょう/一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。

没後
12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績に対して、従三位に叙せられると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定が行われた。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での受賞は長谷川一夫、渥美清、森光子に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。受賞年齢は最年長でもある。

2010年2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で内閣官房長官の平野博文(当時)も参列した。

同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。

『森繁通り』
同年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区が小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長・熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた。2014年11月22日、千歳船橋駅前に森繁が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」の除幕式が行われた。

人物
1975年に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし、役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画『小説吉田学校』など)。

1977年に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける。以後、森繁もこの意見に賛同、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『森繁久彌のおやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は67歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた。著書を多く著しているが、家族曰く最晩年のものを除けばゴーストライターをほとんど使わず、ほぼ自筆で書かれたものであるという。またファンレターもスターとしては珍しく、全て自らが必ず目を通し、できる限り自筆で返事を書くようにしていたという。

趣味
射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。ただし、晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。現在はヒロミが3代目会長として運営している。

ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市の賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。

1960年代にはヨットに傾倒。1965年頃、神奈川県横須賀市に佐島マリーナを建設。 自ら社長としてマリーナ経営を行った。

人間関係
駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。

竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。

舞台・ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎、林与一、西郷輝彦、あおい輝彦らが薫陶を受けた。小林桂樹や藤岡琢也、宝田明を実弟のように大変可愛がっていた。

吉本興業の社長であった八田竹男は北野中学校時代からの同級生である。

松元恵美は姪(兄の娘)の孫にあたる。

評価
森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるに連れ、シリアスな演技者となりたがる者が多発した為、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、その様な傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ、小林は同書で、森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあった為、一時的にその様に注目されたのであって、その為、彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。森繁自身も、周辺から大御所として祭り上げられたり、役として説教臭いキャラクターを演じることはあっても、自ら人生の先達めいて生き様を誇示するようなふるまいがあったわけではない。

2000年にキネマ旬報が発表した「20世紀の映画スター・男優編」で著名人選出の日本男優第9位にランクインされている(同率9位に渥美清、萬屋錦之介)。

受賞・受章歴


栄典・称号
1964年:紺綬褒章
1975年:紫綬褒章
1983年:都民文化栄誉章
1984年:文化功労者
1984年:大阪府枚方市名誉市民
1987年:勲二等瑞宝章[29]
1991年:文化勲章(大衆芸能演劇者として史上初)
1997年:名誉都民
2009年:従三位、国民栄誉賞


受賞
1955年:ブルーリボン賞主演男優賞 『夫婦善哉』
1955年:毎日映画コンクール 男優主演賞 『夫婦善哉』『渡り鳥いつ帰る』『警察日記』『人生とんぼ返り』
1964年:NHK放送文化賞
1974年:菊池寛賞
1976年:ゴールデン・アロー賞特別賞
1976年:紀伊國屋演劇賞特別賞 『屋根の上のヴァイオリン弾き』
1976年:菊田一夫演劇賞 大賞 『屋根の上のヴァイオリン弾き』
1976年:毎日芸術賞
1979年:芸術選奨文部大臣賞
1979年:芸能功労者表彰
1980年:菊田一夫演劇賞 特別賞
1982年:日本文芸家協会大賞
1984年:山路ふみ子映画賞文化賞
1984年:日本アカデミー賞 優秀主演男優賞 『小説吉田学校』
1985年:エランドール賞 特別賞
1985年:早稲田大学芸術功労者表彰
1986年:交通文化賞
1987年:放送文化基金賞
1991年:日本アカデミー賞 優秀主演男優賞 『流転の海』
1992年:「映画の日」特別功労大章
1995年:日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞
2004年:喜劇人大賞名誉功労賞
2009年:第51回日本レコード大賞特別功労賞(没後追贈)
2009年:日刊スポーツ映画大賞特別賞(没後追贈)
2009年:国民栄誉賞(没後追贈)
2009年:毎日映画コンクール 特別賞(没後追贈)
2010年:エランドール賞 特別賞
2010年:日本アカデミー賞 協会栄誉賞(没後追贈)


役職
日本俳優連合永世名誉会長(3代目理事長)
水と緑の館名誉館長
芸能文化人ガンクラブ会長(初代)
日本喜劇人協会会長(第3代)
社団法人あゆみの箱永世名誉会長(元)
関東小型船安全協会会長(初代)