男はつらいよ 寅次郎の青春
★★

松竹/101分/1992年(平成4)12月26日公開 <第45作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    出川三男
共演-倍賞千恵子・・前田吟・吉岡秀隆・下條正巳・三崎千恵子・太宰久雄・笠智衆・佐藤蛾次郎/ゲスト-後藤久美子・風吹ジュン・永瀬正敏・夏木マリ

 

併映作品:『釣りバカ日誌5』監督:栗山富夫 出演:西田敏行、石田えり、三國連太郎、戸川純、笹野高史/動員数200万人/ロケ地:宮崎県油津、下呂温泉

第3回文化庁優秀映画作品賞・長編映画部門(1992年) 

★「男はつらいよ」シリーズ第45作目。

アバンは満男と泉の駆け落ちを無声映画風に仕立てている。渥美清演ずる講道館の柔道家が悪役を背後の川に投げ入れるのは黒澤明監督「姿三四郎」のパロディだ。

今回もトップシーンはスティデカムを用いたジョギングシーン。この回はメインタイトルのバックにもスティデカムを使ったりして、それまでのフィックス主体の高羽哲夫カメラマンが撮る絵とは少し違う画面構成が多い。

寅は宮崎の油津で風吹ジュン演ずる美容師と出会う。その後、店内で髭を剃ってもらうシーンとなる。クラシック音楽が流れる中、髭剃りを何カットも重ねてモンタージュしているが正直何を意図しているのか判らない。床屋の椅子に寝る寅を真上から撮ったり、横移動したりして撮影しているが、何でもない事をさも何か有りげに、思わせぶりに撮っている風に思える。この後寅はその理容師である風吹の自宅に何泊も泊まり込むのだから、もう少し両者の間に相通ずる感情の交差や、セリフのやりとりが必要だと思うのだが・・・。昔のシリーズではそこら辺は丁寧に描いていた。

その後、都合よく結婚式にやってきた泉と寅が宮崎で出会う訳だがこの後のシーン、とらやの庭先で薪を切る満男が出てくるが、満男の顔のアップから始まっている。高羽カメラマンが撮ってきたこれまでのシリーズではこんなモンタージュはなかったと思う。最初見た時、場所がどこだか分からなかった。後ろを博がフレームインしてやっととらやの庭先だと分かった。高羽カメラマンなら、何度も見慣れているとらやの正面から狙い、奥に作業する満男の姿を捉えたアングルだったろうと思う。細かい事を気にし過ぎと言われるかもしれないが撮影者が代わると映画の流れも変わってしまう。

そして寅が足を怪我をして満男が柴又から油津に到着、泉と接して永瀬正敏演ずる風吹の弟に嫉妬するよくあるパターン。しかし永瀬には婚約者が居て良かった良かったとなる。

この頃には「男はつらいよ」もNHKの大河ドラマと同じくロケ先とタイアップして全面協力しているのだろう、現地夜祭での永瀬の歌唱ステージが長過ぎて辟易した。

結局寅は風吹の好意にビビって柴又へ去る。風吹は泉に語っていたフラッと現れた客と結婚。このシークエンスは本来は寅と風吹の間での会話にした方が効果的だったろう。

この映画が公開された3ヶ月後、1993年3月16日、御前様役の笠智衆が88歳で亡くなっている。本作がシリーズでの最後の出演であり笠智衆の遺作となった。・・・合掌。

 

以下Wikiより転載

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笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年(明治37年)5月13日 - 1993年(平成5年)3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。

1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも黒澤明、木下惠介、岡本喜八、山田洋次等、名匠の作品に数多く登場し、貴重なバイプレーヤーとして活躍。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。

熊本県玉名郡玉水村(現玉名市)立花で次男として生まれる。

生家は浄土真宗本願寺派来照寺[ で、父が住職を務めていた。「笠智衆」という名前は本名である。旧制の東洋大学印度哲学科に入学。大学は実家の寺を継ぐために進学すると両親には告げていたが、実際にはその気はなかったという。

1925年(大正14年)に大学を中退し、松竹蒲田撮影所の俳優研究所第一期研究生の募集に合格、入所した。俳優になることは本心ではなく、住職以外ならどのような職業でもよかったのだという。それでも同年7月に父の死で一度住職を継ぐが、結局翌1926年(大正15年)1月、兄にその座を譲って再度上京し撮影所に復帰。以来、松竹映画の俳優としての道を歩み出す。しかし当初は大部屋俳優時代がしばらく続き、映画は大半が通行人などの端役での出演であった。また、大部屋での生活は10年以上も続いた。

1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の『若人の夢』に端役で出演、以降『学生ロマンス 若き日』などサイレント期の小津作品に断続的に出演した(いずれも端役)。1936年(昭和11年)公開の『大学よいとこ』で主演級の役を演じ、同年公開の『一人息子』では、当時32歳ながら初めて老け役を演じた。これが出世作となり、他の監督の作品にも脇役や主要な役で出演するようになった。また、1937年(昭和12年)公開の『仰げば尊し』(斎藤寅次郎監督)で初主演した。

1942年(昭和17年)に公開した小津監督の『父ありき』で主演(小津作品の中では初主演)、7歳年下の佐野周二の父親を演じ、以降小津作品に欠かせない存在となった。

戦後の小津作品には全作出演している。『晩春』では原節子の父親を演じ、『宗方姉妹』では4歳下の田中絹代の父親、『東京物語』では1歳しか歳の変わらない杉村春子、5歳下の山村聡らの父親で15歳も年上の東山千栄子と夫婦を演じるなど、老け役として見事な演技を披露した。逆に、『麦秋』では2歳年下の菅井一郎の長男役で出演している。そのほか、『秋刀魚の味』でも岩下志麻の父親を演じた。

小津作品の出演によって声価を高めた笠は、日本映画界を代表する俳優となり、小津作品で多く父親役を演じたことから「日本の父親像」を確立したと評された。

1969年からは山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに柴又帝釈天の御前様役で出演したことで知られている。黒澤明監督作品には3本出演した。

生涯で約90本のテレビドラマに出演し、向田邦子、倉本聰、山田太一といった名高い脚本家からは指名で出演することも多かった(放映時、83歳だった『今朝の秋』はテレビドラマ最高齢主演だった)。


1993年3月16日、満88歳で没。墓所は北鎌倉の成福寺。亡くなる数年前からは膀胱癌を患うなど健康を害していたが、最期まで現役をまっとうし存在感を維持し続けた。亡くなる約3か月前に封切られた映画『男はつらいよ 寅次郎の青春』(シリーズ第45作、1992年)が遺作となった。

「明治の男は泣かない」
笠は演技について演出家と対立するようなことはなかったが、自ら泣くシーンを演じることは拒否していた。「明治生まれの男が泣くことはめったにない」というのがその理由である。小津作品でも小津の「言われたとおりに演技をした」笠であるが、『晩春』のラストで笠が林檎の皮を剥いてから慟哭するというシーンに対して「これはできません」と申し出、小津がそれを認めて、うなだれるシーンに変更した。後にこのシーンを「居眠りをしている」と批評した評論家に対して大変憤りを感じたと語っている(『大船日記』より)。

泣くシーンとしては1982年のテレビドラマ『ながらえば』で入院している妻に「寂しい」と言って涙を拭うシーンとして登場するが、これは涙を拭う真似をしているだけで、実際には泣いていない。初めて泣くシーンは1983年のテレビドラマ『波の盆』で、日本の敗戦に悔し涙を流し死期の迫った妻の前で号泣する老人の役を演じた。2年後の『冬構え』では、自殺を図るが未遂に終わり旅館で1人泣くシーンの撮影に際しても笠は泣くことを拒否したが、脚本を担当した山田太一の依頼に応じ演じた。後に山田は「美しい」と感動した(『あるがままに』より)が、笠自身は違和感を覚えていた(『大船日記』より)。

1990年代に入ってからは『男はつらいよ』の「御前様」の印象から、特に若い女性層から「優しいおじいさん」として人気が高かった。NHKでは笠の亡くなった直後に追悼番組として主演ドラマ『今朝の秋』を放映したが、放映後に笠を悼む感想が多数寄せられた。その中でも多かったものが、笠を自分の祖父のように思い、笠の死が自分の祖父が亡くなったように思えて悲しい、という内容であった。NHKではこれらの感想を中心に構成された番組を放映。笠との共演が多かった杉村春子がナレーションを担当した。杉村自身も手紙の多さに驚き、笠の人気の高さに感動したと述べている。

笠には出身地である熊本の強い訛りがあった。この訛りは生涯抜くことができず、笠の台詞回しの大きな特徴となっている。デビュー当初は、この訛りが障壁となって、俳優としての出世を遅くさせる結果となった。しかしこの強い訛りが、笠の実直で朴訥とした性格を滲み出し、他の俳優にない独特の個性を引き出すことになった。戦後小津安二郎以外の多くの著名な監督の作品に出演できたのも、この熊本訛りにより表出される実直さや素朴さによるところが大きい。

昭和初期から中期までの映画の世界では、俳優は関東・関西出身でなくても関東・関西の言葉で台詞を話すのが基本となっていた。その中でこのように訛りを個性にした俳優は、他には「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」で知られた福岡県豊前市出身の大河内傳次郎がいる程度で、日本の俳優では稀有な存在であった。