2012.9.10
6:00-8:50 首都ナイロビから事務所に移動
9:00-12:30 新規プロジェクトについて話し合い
12:30-13:30 ランチ、ピラウ(チャーハンのようなご飯、ほうれん草、豆、スープetc)
14:00-17:00 11日移動の最終調整。各自Office Work

2012.9.11
7:30-8:30 移動
8:30-10:40 HeadTeacherと話し合い後、校内・授業の視察
10:40-11:30 移動
11:30-12:40 ECDTeacherと話し合い後、校内・授業の視察
12:40-13:10 事務所に移動
13:10-14:00 ランチ、ギゼリ(メイズと豆を似て焼いた現地人の主食)
14:00-14:45 2校視察における確認事項のまとめ

2012.9.12
8:30-9:00 meeting
9:00-10:00 移動
10:00-13:15 w/s
13:15-14:10 移動
14:10-15:00 ランチ
15:00-15:45 review
16:30-17:50 散歩

2012.9.13
9:00-9:40 meeting
9:40-10:00 移動
10:00-13:15 w/s
13:15-13:40 移動
13:45-14:10 review
14:10-14:30 ランチ

2012.9.14
8:05-8:25 移動
9:00-13:00 週例会議


ランクルーでいろんな学校に訪問・視察。

日本の物価の50分の1なんだとか。

そういった目でみられてるとは思いもせず、
ただただ現地の人の生活をみるだけの最初の1週間でした。

5uda@kenya
防寒対策の帽子をかぶる子
5uda@kenya
青空会議
5uda@kenya
学校の校庭

2012.9.14
「土」 金子みすゞ
こッつん こッつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路(みち)になって
車を通すよ。

打たれ土は
踏まれぬ土は
要(い)らない土か。

いえいえ それは
名のない草の
お宿をするよ


最近よく土を目にします。
ケニアの東側を含めた80%ぐらいが
乾燥地帯だからなのでしょうが、
見渡す限り茶色い世界です。
みすゞさんの詩を読んでまた、
今見ている光景が新しくみえるような気がします。
そう思うと、また明日からが楽しみです。
ただビールの瓶の縁までひっつく土埃は、
どうしてもまだ慣れません。


5uda@kenya
土の上を走るバイク
5uda@kenya
土に立つ木
5uda@kenya
土に座る子ども


2012.9.12
ちびでデブで、はげかけ三十路前の男が主人公の漫画。
似たような容姿の友達が二次元の世界でモテ始めたのをきっかけに、
自らも進歩した最先端に二次元世界に入ってく物語です。

そもそもニーチェが
なんらかの関わりにおいて、
弱者が強者に対して、自らの欠点を棚に上げ、
空想上においてのみ、勝ち誇ろうとする
負け惜しみ的な姿勢、妬み・怨み、等を
ルサンチマンと呼び、その心を奴隷道徳といったそうですが、
まさにこの漫画の主人公は、現代版ルサンチマン像を
描いているように感じました。

ただ、常にそういった状況が続く訳でもなく、
負け惜しみ切った先には、一歩何らかの形で前に踏み出すものだそうです。

二次元でも女性にもてない主人公は、
いろんな人に出会ったことを契機に、
今までとは違う選択をし始めます。
ニーチェ的に言えば、
同じようなことに直面し続け、悩み・苦しむことは、
永遠回帰なのであって、それは生きている限り続くんだそうです。

ただこの主人公のように、
何かをきっかけに乗り越え続けようとする人を、
ルサンチマンにかわって、超人と呼び、
奴隷道徳に打ち勝ち、よりよい生き方をしていける人だと位置づけています。

この主人公もまた、様々な困難を乗り越え、
結局は自分のエゴに打ち勝っていくのですが、
現代的というか、自分にも当てはまる部分があったせいか、
それかとてもなんだか応援してしたくなってしまうキャラクターなのか、
前に必死に進む姿に、心打たれました。
少なくとも、こんな堅苦しい感情は、
読んでる時は思うことはなく、今昔読んだ内容を振り返ってみると、
思うだけなのですが。

2012.9.10

$5uda@kenya-ひまわり
本当の超人は彼らなのかもしれない
鐘を鳴らすのにも、
大きな小槌と割り箸では、
音の響き方が違うように、
何かに出会った時の反応というのは、
その人の経験してきた積み重ねの違いによって、
全く異なるんだと改めて思いました。

プロメテウスについて色々みていたら、
ゲーテが彼についての詩を書いているのを見つけました。


以下、転送

『プロメテウス』 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


 ゼウスよ おまえの空を
 灰色の雲のもやで 覆え
 あざみの頭をむしる
 子供のように
 樫の木に 山のいただきに襲いかかれ
 だが このおれの大地に
 指一本ふれてはならぬぞ
 おまえの力を借りずに建てたおれの小屋に
 そしておれのかまどにも
 その火を
 おまえは ねたんでいるのだ
 
 神神よ 太陽のもとで おまえたちより
 哀れなものはあるまい
 おまえたちは ほそぼそと
 いけにえの ささげものや
 祈祷の吐息で
 おまえたちの威厳をやしなっているだけだ
 おまえたちは 飢えてくたばるだろう
 餓鬼や乞食のような人間どもが
 おろかしい願いごとをしなければ 
 
 おれは 子供のころ
 何がなんだかわけもわからず
 迷いの目を太陽のほうへむけた
 そこにこそ おれの悲しみを
 きいてくれる耳があるだろう
 おれと同じような
 苦しむものをいたわってくれる心があるだろうと
 
 巨大な蛮族の暴力から
 だれが おれを救ってくれたのか
 死から そして奴隷から
 だれが おれを助けてくれたのか
 それをやりとげてくれたのは
 おれの 聖らかな火の燃える心ではなかったか
 それなのに 若い ひとのよいおれは
 すっかりだまされて
 天上で惰眠をむさぼる神神に感謝の念を燃やしていた
 
 おまえを崇めよというのか なぜなのだ
 おまえは一度でも 重荷を背負う人間の
 苦しみを軽くしてやったことがあったか
 おまえは一度でも 苦悩に打ちのめされている人間の
 涙をぬぐってやったことがあったか
 おれを 一人前の人間にきたえてくれたのは
 全能の「時」と
 永遠の「運命」ではなかったのか
 これこそ おれの主だ おまえの支配者だ
 
 うつくしい夢の理想が
 すっかり実らなかったとからといって
 おれが 人生を憎み
 砂漠に逃げなければならぬと
 おまえは 妄想でもしているのか
 
 おれは ここに坐って
 おれの姿そのままに人間をつくるのだ
 おれにひとしい種族をつくるのだ
 苦しんだり 泣いたり
 楽しんだり 喜んだり
 そして おまえなどを崇めない
 おれのような人間を

『ゲーテ詩集』ゲーテ・井上正蔵訳(1965)


ゲーテが激しくプロメテウスに、
反応しているのが自然に伝わってきました。
ゲーテを通して、
プロメテウスのすごさを感じさせてもらいました。
ゲーテ自身の生き方・言葉が、
プロメテウスの言葉を生き返して、
掘り返しているようにも思いました。

言葉を選んで誰かに自分の気持ちを伝えるって、
何かを育てることと同じようなことかもしれない、
と思いました。

$5uda@kenya-流氷
流氷を挟む2つの青色

2012.9.9
空の上、大韓航空で雲の上にいるとき、
2つの映画をみました。

1つは『プロメテウス』。
2090年代を設定に、10億光年離れた地球に似た惑星に向かって、
地球を代表する科学者たちが、人類の起源に迫っていく内容。

もう1つは『テルマエ・ロマエ』。
ラテン語で大浴場を意味するこの言葉は、
古代ローマ人が愛した大衆文化だったそうで、
現代の日本の風呂好き文化といかに共通するかを
描いた漫画を映画化したとか。

どちらも「異界」に直面した登場者たちが、
自己の世界や価値観に因われず、
目の前に広がる新たな文化に必死で手を伸ばして、
何かを掴もうとしていました。

子どもの教育には
例えばジブリの『トトロ』のように、
「異界」との出会いがそれを急速に成らしめ大切だと、
よく僕の友人は言っていましたが、
誰でもこうした異界との出会いは、
次へのきっかけなのだなと思いました。

自分はプロメテウスのように
「先見の明をもっている」「熟慮するもの」
とはほど遠いし、今そういう努力をしていないんだろうけど、
ゼウスに縛られようとも、人間に火という何か、
夢か、希望か、次なるステップに向けて、
よいしょと持ち上げようとしてくれた、
その姿勢にすごく心打たれました。

「人生において疑いようのない生き方がある。
 それは他者のために生きることである」
と誰かが言っていたような気がしますが、
今は本当にそうなのかなと分からないですが、
いつかそう感じることができたらいいなとは思います。

$5uda@kenya-どこまで続くか分からない道
どこまで続くか分からない道


2012.9.8
今日、茶色い世界にきました。
いろんな茶色があることを知りました。
たくさんの綺麗な茶色に出会いました。
どこまでも続く茶色に見とれて、いつの間にか寝ていました。
目が覚めても、その世界は広がっていました。
なんだか落ち着く光景でした。

灰谷健次郎さんは、
単に崇高な芸術が素晴らしいだけではなく、
そこには美しいものを美しいと思う心がなければ、
それは美しいものとはならない、と言われてました。

新しい何かに出会うとき、
それを美しいと思うのは自然なことだと思いますが、
1ヶ月後でも、まだ新しい何かを発見できる自分でありたいと
思った1日でした。

写真には撮れませんでしたが、
今日一番心打たれた景色は、
茶色い世界に力強くそびえ立つ、1本の木でした。
その木は、180度めいっぱいに伸びていこうとしていました。
まだまだ、伸びていこうとしているようにもみえました。
水の少ない茶色い世界で、
それでも自分を表現しているように感じました。
すごく切なく、羨ましく、今の自分にはみえました。


$5uda@kenya-窓の外
窓の外


2012.9.7 kenya
星野道夫さんの本を久々に読んだ。
彼はつくづく自由な人間だと思った。
16歳で、とある写真集の忘れられない光景を見に実際に行ってしまうし。
しかも、そこで現地人と一緒に狩りをするのです。
19歳では周りの反対を押し切り、ただ一人父親の支援を得て、船で世界旅へ。
大学も入学手続きも取れていないのに、
片道航空券でアラスカの大学の扉をたたく。
なんの縁あってか大学教授の支援で入学し、
想像をこえるアラスカの原野を写真とともに駆け巡る。


この本は、彼の書いたエッセーがつまった1冊になっています。
中でも、心に残った箇所がありました。
「もう1つの時間」
というタイトルのエッセー。
アラスカの氷河の上で野営をしているとき、
空から降るような星空を眺めながら、
友人と話している場面。

「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうな・・・
 夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに
 宇宙がある。1日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな」
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
 たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。
 もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり
 言葉で伝えたらいいかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・
 その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

自然は万人に等しく語りかける。
なんだか表現方法って写真とか、絵とか、
そーゆー芸術関係なんだろーなと思って偏っていた自分には、
はっとさせられた箇所でした。
自分が変わることで、その感動を伝えられるなんてすごいなと。

高校のときのnativeの英語の先生が
「選択できることが自由なんです」
と言ってたけど、
無限の複雑さをもつフラクタルな時間軸の上において
星野さんの選択は、
単純に自分に素直になってただけだったのかなと思いました。

5uda@Laos-高校生の時の視点
高校生の時の視点、みていた光景。
川の向こうは外国です。

ラオスの西側は、川の向こうにタイがあります。
ラオスからみるタイは煌びやかとしてます。

夜首都のビエンチャンは、
街中ではあまりうるさい場面に出くわすことはなく、
静かにバイクや車の音が聞こえる程度で、
ただカトゥーィ(おかまちゃん)にひつこくお酒を一緒に飲もうと話しかけられるぐらいです。

対照的に夜になって川岸を眺めて明るいなと思うところはすべてタイでした。

その光がまるで大きな発展を遂げた証でもあるかのように灯り続けています。

地図でみても実際に眺めても言葉も文化もタイは近い国です。
ビエンチャンから眺めるメコン川越しにみえるタイは綺麗でした。

でも30数年前に思いを馳せ、
革命前後のラオス人とってこの距離は、
命を人生をかけなければいけなかったものだと知ったとき、
今眺めるメコン川の先のタイは、
なんだか自分にとっても、
みえるのに行けない国になったような感じがしました。

現在も続いているかは分かりませんが、
タイの人はラオスの人を下にみる傾向があるそうです。

あるドラマではラオス人のメイドさんに向かって、
「ちゃんとタイ語が話せないのか」
と怒鳴るシーンがあり、その電波は
隣国ラオスの茶の間でも流れました。
ラオスでも大人気の男性歌手もインタビューに対して
「ラオス人とは絶対に結婚できない」
と豪語し、結局その人気は衰えました。

みえない国境がここでもあるんだなと思いました。

5uda@Laos-ラオスの夕日
ラオスの夕日

5uda@Laos-ご飯を食べる人
ご飯を食べる人

5uda@Laos-川沿い
川沿い

何度か読んだことがあった作品だったけど、

今読んで尚、まるで目の前に居て一緒に話しているかのような現実性を感じた全12巻でした。



誰しもが直面する生老病死の悩みに加え、

そこを掘り下げてみると、

ブッタの心を捉えるのは、常に人々の悲しみと苦しみでした。



人はなぜ生きるのか。苦しむのか。むしろ、なぜ苦しみがあるのか。
どうしたら、苦しみからのがれられるか。



そんな中でも、すごく印象に残ったシーンがありました。



ある人が、なぜ人は不幸なのか、不幸なのになぜ人はこの世に生きてるのかと、
ブッタに聞きます。



するとブッタは答えました。



「木や草や山や川がそこにあるように、人間もこの自然の中にあるからには、

 ちゃんと、意味があって生きているのだ。

 あらゆるものとつながりを持って。

 そのつながりの中でおまえは、大事な役目をしているのだよ。

 もしおまえが、この世にいないならば何かが狂ってしまうだろう」と。



世の森羅万象はそれぞれがそれぞれに、どこか関わりあっていると
『ブッタ』に登場する人々は、自身の生涯を通して語ってくれました。


今日は必ず明日につながっているんだなと、なんだか再確認できました。


5uda@Laos-空とつながる木
空とつながる木

5uda@Laos-じゃり道
じゃり道

5uda@Laos-鱗雲
鱗雲

5uda@Laos-海につながる道①
海につながる道①

href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120604/18/5uda/89/c5/j/o0800106712010555010.jpg">5uda@Laos-海につながる道②
海につながる道②
今日は隣町のタイに行ってきました。
今住んでる場所にとって隣国のタイは川を橋で超えた隣町。
川の向こう岸には日々タイの煌びやかな街灯が光っています。

専門家のおじ様の車で国境超。

ムクダハンにある国立公園の岩山を登り、
買い物に勤しみました。

ラオスという国はお店で売ってる物を
すべて隣国のタイからの輸入に頼っているせいか、
食材以外の大半はタイ価格の上乗せで販売。
成長期真っ最中のタイなのに、
物価はラオスよりも安いのです。

ムクダハンでも多くの客を寄せるマーケットで買い物をしたとき、
階段を使用しました。

先日のamebanewsで
日本の階段の角度等は何とか協会で定められていて、
なんとかかんとかと言っていましたが、
タイやラオスの階段は歩き手無視の階段の幅、高さ、奥行でした。
便利な生活に慣れてしまった人には
特に足の悪い人やお年寄りにはきつい階段だと感じました。

実際に体験してみて階段1つとってみても、
使い手を意識して作ってくれてる人がいるんだなと思いました。
改めてそういう方々へ感謝した瞬間でした。

5uda@Laos-有名カフェにある絵
有名カフェにある絵
5uda@Laos-国立公園の景色
国立公園の景色
5uda@Laos-国立公園の岩
国立公園の岩
5uda@Laos-マーケットの階段
マーケットの階段