第十五代応神天皇の時代に弓月君という渡来人が日本にやって来たとの記載が日本書紀にあります。
その弓月の君をWikipediaで調べてみると、弓月君の子孫は葛野秦氏などを中心に各地の秦氏の流れへと繋がるとあります。
秦氏をWikipediaで調べてみると、秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされ、その他各地に秦氏の系統の一族はいたとあります。
実際に正倉院の文書のなかに豊前地域の豊前秦氏の戸籍を確認することができます。


みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」の豊津町史ほか
古代(奈良・平安時代)

第三編 古代(奈良・平安時代)

第三章 律令政治の展開と郷土-奈良・平安時代-

第四節 律令制下の人々の生活

一 戸籍の編成と豊前国
のサイトより引用

正倉院に残る豊前国戸籍
(中略)
大宝2年(702)豊前国上三毛郡塔里
  同          豊前国上三毛郡加目久也里
  同          豊前国仲津郡丁里
(中略)
豊前国の里のそれぞれの位置については、仲津郡丁里(ちょうり)は現在の京都郡の一部に、上三毛郡加目久也里(かめくやり)は現在の豊前市の大村・八屋付近に、上三毛郡塔里(とうり)は築上郡大平村唐原(とうばる)付近に比定されているが、いずれも山国川の左岸から行橋・京都郡の間に位置した村落である。
(引用おわり)

地図で秦氏の居住地域を確かめてみます。

豊前国の戸籍の地名を緑色で記します。


図1

 

 

図1を見ると、秦氏は聞物部の南に居住していたようです。
先程のサイトに秦氏について更にに詳しい説明があります。

(前略)

(宇佐市史より)
(中略)
 これらの戸籍には秦部(はたべ)という氏を持つ者のほかに勝という姓を持つ人名が多く、このことが特徴的である。秦部は朝廷で伴造(とものみやつこ)として奉仕していた渡来系氏族秦氏の部民(べのたみ)として組織された集団で、力役と貢納によって奉仕する地方農民であった。豊前国で秦氏の部民が組織された時期については幾つかの意見があるが、『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)紀の秦酒公(はだのさけのきみ)が秦の民を賜り、百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて庸・調の絹を献上する記事、『姓氏録』の泰氏が「秦民九十二部、一万八千百七十人」を率いて伴造になった記事などから五世紀後半が考えられたり、また大和政権がいちおう関西以西の各地に支配権を樹立した六世紀前半代が考えられたりしている。
 (中略)
第10表 豊前国戸籍(大宝2年)
(中略)
秦部+勝姓の総人数に対する比率は、丁里94%、塔里96%、加目久也里82%、某里100%で、平均93%にのぼる。(『福岡県の歴史』平野邦雄・飯田久雄著 山川出版より)
(引用おわり)

戸籍を見ると、どうやら八世紀初め頃の豊前地域には、ある程度の規模の渡来人集落があったようです。