日本書紀の第十四代仲哀天皇の記述のなかに熊鰐という豪族が登場します。
その熊鰐について調べていたところ、Wikipediaの岡田宮のページに詳しい説明がありました。

 

Wikipediaより引用
かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。
仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。
(引用おわり)

 現在、熊鰐のご子孫の方は波多野姓になられているようです。
岡田宮の周辺で波多野姓の方が宮司をなさっている神社をネットを使って調べてみました。
岡田宮、中宿八幡宮、豊山八幡神社、春日神社、一宮神社、高見神社の宮司の方は波多野姓のようです。
(この情報は個人の簡単なネット調査によるものです。そのため情報は正確ではない可能性があります)
調査した神社を図1に赤色で記します。
熊鰐に関係があると思われる神社は洞海湾沿岸部に集中しています。
おそらく熊鰐は洞海湾を拠点にしていたものと思われます。

図1

 

 先代旧事本紀という古代の文献があります。
この文献には古代豪族物部氏の系譜が記述されています。
先代旧事本紀の天神本紀にみられる氏族の名前と北九州筑豊地域の地名には同一性がみられます。
おそらく一部の物部氏はこの地域に住んでいたものと思われます。
天神本紀に出てくる氏族を図1に青色で記します。
遠賀川西岸に、二田物部(鞍手郡二田郷)、筑紫贄田物部(鞍手郡新分郷)、芹田物部(宮若市芹田)、嶋戸物部(遠賀郡遠賀町島門)、赤間物部(宗像市赤間)がみえます。
そして洞海湾をはさみ東に片野物部(北九州市片野)、筑紫聞物部(北九州市企救)がみえます。
この物部氏の分布は少し不自然なように感じます。
物部氏は遠賀川西岸に多く分布しています。
その物部氏の支配地域の東側には熊鰐の支配地域があります。
そして熊鰐の支配地域の東にまた物部氏の支配地域があります。
物部氏の支配地域が熊鰐によって分断されています。

 熊鰐と物部氏の関係を考察してみます。
北九州で最も古い神社は岡田宮の元宮である一宮神社の中の元王子神社だと思われます。
元王子神社には神武天皇とアメノオシホミミが祭られています。
日本書紀によれば神武天皇はアメノオシホミミの子孫となっています。
熊鰐は元々はアメノオシホミミを祭っていたものと思われます。
熊鰐の周辺に居住する物部氏の祖神はニギハヤヒです。
先代旧事本紀によるとニギハヤヒはアメノオシホミミの息子となっています。
物部氏も元々はアメノオシホミミを祭っていたものと思われます。
元々は北九州筑豊地域一帯ではアメノオシホミミが信仰されていたものと思われます。
しかしながら、ある時から物部氏はニギハヤヒを祭るようになり、熊鰐は神武天皇を祭るようになったのではないでしょうか。
熊鰐と物部氏は、信仰する神の違いにより分裂したように思えます。
しかし長い時が経ち近代の昭和の時代になると、熊鰐と片野物部、聞物部は北九州市として再び一つになりました。