豊前秦氏が豊前地域で勢力を拡大させるきっかけとなった事件があります、その事件とは527年(継体天皇21年)に起こった磐井の乱です。
詳細が香春町史に載っていたので引用します。

香春町史編纂委員会編『香春町史上巻』(香春町)

 秦氏の宇佐国進出

(前略)
筑紫君磐井は新羅の貨賂を受けて、北部九州の国造を動員して反乱を起こした。朝廷は鎮定に一年ばかりかけてようやく治めた。乱後安閑二年(五三五)には豊国は五か所の屯倉を朝廷に献上して、豊国の秦氏は朝廷の信頼を回復したが、宇佐国造は罰せられたのて、これまでの宇佐国の拠点を捨てて三キロばかり東方に逃れて恭順の意を表していた。六世紀末頃になると、秦氏配下の辛嶋勝は宇佐国に入り遂に宇佐氏の聖地、鷹居社地(環濠集落)を占拠してここに宮柱を立てたのである。たまたま筑前国には神功皇后・応神天皇の崇敬を守っていた大和系の大神氏がいたが、八世紀に官社設立が始まり、宇佐では、秦氏は弥秦神と、大神氏は応神天皇を祭神とすることで熾烈な闘争をしていた(承和縁起)。法蓮は彦山から宇佐に迎えられ、弥秦神も応神天皇も同体の八幡神だとして両氏の争いを、法蓮は仏教の「幡」と道教の思想集合によって収めた。そこで八幡神は和銅五年(七一二)無事に官社になった。ここに宇佐神は八幡神となり、八幡神は靈亀二年(七一六)小山田へ遷坐したが、養老四年(七二〇)これまでも続いていたが、是年蝦夷と隼人の反乱が同時に起った。これは律令制に対する反対運動であったが、この時すでに朝廷は大軍を出していたが、改めて八幡神に勅使を遣し戦勝を祈ったという。
(引用おわり)

図1



 磐井の乱をきっかけに豊前秦氏は支配地域を広げたようです。

図1の緑色の秦氏の支配地域から、その東の現在宇佐八幡宮がある辺りまで進出したようです。
八世紀、この地に官社を設立するとき、秦氏は弥秦神を、大和系の大神氏は応神天皇を祭神とすることで熾烈な闘争をしていたとあります。
それを仲裁するため彦山から宇佐に僧である法蓮が迎えられたとあります。
八幡神は、政治的な話し合ににより誕生した政治色の強い神のような気がします。
後に日本の皇室は宇佐八幡宮神託事件により危機を迎えることになるのですが、八幡神はこの事件にも関わることになります。