日本書紀の第十四代仲哀天皇の記述の中に、男神である大倉主と女神である菟夫羅媛という神が登場します。
このニ神は、岡垣町の高倉神社と芦屋町の岡湊神社に実際に祭られています。
いずれも遠賀川下流の西岸にある神社です。
付近には遠賀郡遠賀町島門という地名があります。
先代旧事本紀の天神本紀には嶋戸物部がみられるので、おそらく大倉主と菟夫羅媛は嶋戸物部に関係がある神ではないでしょうか。
北九州筑豊地域で、物部氏に関係があると思われるものを青、熊鰐に関係があると思われるものを赤、秦氏に関係があると思われるものを緑で図1に記します。
図1

日本書紀の第二十一代雄略天皇の記述の中に筑紫の聞の物部大斧手という人物が登場します。
Wikipediaの朝日郎(あさけのいらつこ)の記述に詳しい説明がありました。
Wikipediaより引用
雄略天皇は474年8月10日、物部菟代宿禰と物部連目を遣わし伊勢朝日郎を討たせた。
(中略)
菟代宿禰は進撃することができず一晩対峙した。
(中略)
明けて翌日、物部目連が自ら大刀を取り、筑紫の物部大斧手に楯を持たせ、大声をあげて突き進んだ。遠目で見ていた朝日郎は矢を放ち、大斧手の盾と二重の鎧を貫き、さらに体にも負傷させたが、大斧手は楯で死ぬことはなく、ついに物部連目は朝日郎を捕らえ斬り殺した。
(中略)
天皇は侍臣に「菟代宿禰はなぜ命に背いているのか」と問うと、讃岐の田虫別が申し出て「菟代宿禰は一晩二日間も怯えていて朝日郎を捕えることが出来なかったのです。そのため物部目連が筑紫の聞の物部大斧手を連れ、朝日郎を捕えて斬ったのです」と告白した。
(引用おわり)
筑紫の聞の物部大斧手は、先代旧事本紀に記述がある聞物部の一族でしょうか。
この記述をみると、菟代宿禰は一晩二日間も怯えていて朝日郎を捕えることが出来なかったとあります。
大斧手については、「遠目で見ていた朝日郎は矢を放ち、大斧手の盾と二重の鎧を貫き、さらに体にも負傷させたが、大斧手は楯で死ぬことはなく、ついに物部連目は朝日郎を捕らえ斬り殺した」
とあり、聞の物部大斧手は、けっこうな度胸の怖いもの知らずな武闘派の武将のような気がします。
宝賀寿男『物部氏』(青垣出版, 2016)に興味深い記述があったので引用します。
弓削連氏と道鏡の一族
(前略)
系図によると、守屋が滅ぼされたとき、その子の片野田連等は筑前の鞍手郡に流されたが、その孫の櫛麻呂の子が道鏡とされる(後略)
(引用おわり)
先代旧事本紀の天神本紀には鞍手郡一帯にある地名を名に持つ氏族が登場します。
そのため守屋の子は九州物部氏の里に帰されたということでしょうか、鞍手が九州物部氏の中心地ということでしょうか。
それに、日本の皇室に危機的状況を作った宇佐八幡宮神託事件に関わることになる道鏡は、守屋が滅ぼされ、一族が鞍手に流されたことを恨みに思っていたのでしょうか。