日本書紀の景行天皇の記述の中に神夏磯媛(かんなつそひめ、かむなつそひめ)という女酋が登場します。
景行天皇のウィキペディアより引用
九州巡幸
即位12年8月、熊襲(現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく天皇自ら西下。
同年9月、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。
神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。
そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。
同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長峡県に行宮(かりみや)を設けた。
そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。
(引用おわり)
この記述を見ると、神夏磯媛と鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折は敵対関係にあるようです。
日本書紀の記述を見ると、鼻垂は菟狭の川上(おそらく駅館川)、耳垂は御木の川上(おそらく山国川)、麻剥は高羽の川上(おそらく彦山川)、土折居折は緑野の川上(おそらく深倉川)にいたようです。
この地域の豪族を図1に示します、青は物部氏に関係があるもの、緑が秦氏に関係があるものです。
図1

神夏磯媛は、この地域での自らの立場をより有利にするために景行天皇に上奏したのでしょう。
そして天皇はその願いを聞き入れます。
天皇は神夏磯媛の側に立っています。
天皇は、豊前国の長峡県に行宮(かりみや)を設けた。
そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶとあります。
奈良時代の豊前の戸籍を見ると、その辺りは豊前秦氏の居住地域です。
神夏磯媛はおそらく豊前秦氏でしょう。
豊前秦氏はヤマトの力を借りて居住地域を広げていったのではないでしょうか。
ではなぜヤマトは神夏磯媛に協力したのかを考察してみます。
豊前秦氏の支配地域に含まれる香春岳からは銅などの鉱物資源か採れます。
ヤマトはそれらの資源と引き換えに神夏磯媛の願いを聞き入れたのではないでしょうか。
香春神社のウィキペディアによると、宮司は代々、赤染氏、鶴賀氏が務めるとあります。
谷川健一『四天王寺の鷹』(河出書房新社、2006年)
によると赤染氏は秦氏であるとあります。
延長五年(九ニ七)編の『延喜式』の主税上によると、備中国・長門国・豊前国に鋳銭年科として、備中国には銅八百斤、豊前国に銅二千五百十六斤ニ分四銖、鈆(鉛)千四百斤、長門国の銅は同数、同国鉛は「千五百十六斤十両ニ分四銖」とあります。
豊前秦氏はかなりの量の鉱物をヤマトに納めていたようです。
その功績が認められたのか、香春神社は正一位の神階を与えられています。
辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年より早いようです。
豊前秦氏とヤマトの間には、持ちつ持たれつの関係が築かれていたような気がします。